図形と線
私は、方向音痴「だった」。
どれくらい、方向音痴だったかを示すわかりやすいエピソードをひとつ。
サラリーマン時代のある時、私は名古屋の新しい取引先の事務所に向かった。
ところが、歩けども歩けども、事務所はない。
番地がない!と、私はパニックになり、3時間くらい、その辺りを歩き回り、最終的には上司が「もう帰ってきていい」と言った。
同じようなことが何度かあり、上司には「初めて行く場所に行く時は、必ず駅からタクシーに乗れ」と言われていた。
どんなに近い場所でも。
(タクシー代が経費で落ちない後輩が、なんでNさん(私)だけいいんやとぼやいていた。)
私は、仕事に支障が出るレベルの方向音痴だったのだ。
しかし!過去形となりました!
私が道に迷うのは、「初めて」行く場所だけ。
私は、道順を記憶するのは苦手ではなく、最初に正しい道順を線で覚えればいいだけということがわかったのだ。
物だけでは記憶ができないが、線なら覚えられるということに。
それまでは、人と一緒に歩いて教えてもらっても覚えられなかった。
ちなみに、私は地図も読めない。
しかし、Google Mapならば、読める!
それは、自分がどこにいるか、チカチカして教えてくれる。
出発地と目的地を繋ぐ線の上を動く自分の感覚と、どれくらいの時間がかかって線の上を動いているか時間感覚を一緒に覚えられる。
すると2度目からは、きちんと到着するのだ。
線があれば覚えられる。
道順を図形として。
図式、図形なら、私は覚えられるのかと思った。
方向音痴よさらば!と同時に、私は、自分の記憶の仕方にも気づいた。
そして、そういえば、人の会話も(セッションも)、私は図式で覚えるなと気がついた。
礼拝の聖書解説も、図形を書いている。
もしかして、私の頭の中で、言葉や文字、風景は、線で描かれた図に変換されているのかしら?と、私は思った。
方向音痴とのお別れは、自分個人の記憶の仕方、物の理解の仕方についての謎を残していった。
図形と線?