もうひとりのばか

昨日書いたばかと別に、もうひとり、ばかがいる。

小学四年生のばか。

小学校のクラスは、三年、四年と持ち上がりで、私はその頃、三年生から一緒のクラスの子供達と過ごしていた。

私は、三年生の途中で、転校してきて、最初の二か月、「スペイン語を話した」という理由でいじめられた。
話したかどうかは定かではない。
ただ、それまで私立の日本人学校に通っていて、習いごとはピアノに刺繍だった自分が、お嬢ちゃんぽい雰囲気を持っていただろうことと、それが、ラテンな地域にある小学校のクラスの雰囲気に合わなかったことは、容易に想像できる。

子供は異物をはじこうとする。
大人の世界より、ずっと残酷だ。

しばらくすると、私をかばう人達が登場しはじめ、二か月経つころ、私には友達ができていた。

そして、私は、自分をいじめた首謀者を許さなかった。
四年生になっても、まだ、私はその子を許していなかった。
ことあるごとに、私はその子にきつくあたり、その子もまた、私に意地悪をした。

そんなある日の夜、ついに、私は、その子が死ねばいいのにと思った。
その子がいなければ、学校が楽しいのに。


翌日、学校にその子の姿はなかった。
先生が、その子は病気で入院してしばらく来ないと言った。


それは、偶然だったのだろう。
けれど、子供の私は怯えた。
どうしよう、私のせいだ。
私があんなことを願ったから。


それから、その子は学校にはいなかったが、学校はちっとも楽しくなかった。
私に意地悪する人はいなかった。
けれど、楽しくなかった。
私のせいで人が死んだらどうしようと、私は怯え続けた。


しばらくして、その子のところに、他の子供達と一緒にお見舞いに行った。
いつもより大人しいその子の顔を、私は、まっすぐ見れなかった。


やがて、その子は退院してきた。
私は、人殺しにならずにすんだと、本当に安心した。
その子が元気になって、うれしかった。

そして、それから、理由はわからないけれど、その子はもう私に意地悪しなかったし、私もその子にきつくあたりはしなかった。
時々、けんかはしたけれど、それはただのけんかだった。
私は、もう、その子が自分をいじめたり、意地悪したことは、なかったことにすることにした。

そして、学校は楽しくなった。


以降、私は、他人の不幸を願ったことが一切ない。
怖いからだ。
それくらい、子供の私は、偶然の一致に怯えた。


だれかの不幸を願いそうな時は、その人から離れる方法を考えた。
学校以外では、それは、簡単だった。
義務教育の学校は、関わる人を自分で選べない特殊空間だ。
高校以降は、自分で学校を選んでいるので、それはある意味、関わる人を自分で選んでいることにもなる。
仕事はそこを、その仕事を辞める自由がいつでもある。
家族や友人は、自分が作るものだから、それがどうあるかは私の責任だ。



そして、大人になって長い時間が経った後、私は、他人については幸せしか願ってはいけないという結論に達した。

自分が幸せになりたいならば、他人の幸せを願え。
他人の幸せがそこにない自分の幸せは、私には成立しない。
気に入らない誰かを排除することは、私の幸せにはつながらない。
どうしてもその1人の側が苦痛なら、自分が去ればいい。

私は、そう決めた。


今、この小学四年生のばかには、私は、感謝している。
長い時間、他人の不幸を願わずにすんだのは、ばかが痛い目を見てくれたおかげだ。


その他大勢のばかとあほで構成されているのが、私の人生で、彼らをなかったことにした時、私は私でなくなる。

ばかとあほの居場所は、私の中にちゃんとあり、しかし、彼らは今の私を脅かさない。
私も彼らをどうこうしようとは思わない。
彼らのことを考えると、私の胸は確かに痛むが、彼らを癒す必要はない。
ただ、その時、わからずに、でも、それなりに頑張って生きていただけだろう。
ただのあほとばかだ。


あほとばかを、もしも別の言葉で言い換えるなら、それは、戒めという名前。

私には、戒めは堅苦しいので、あほとばかで十分だ。