ばかと共に生きる

謝りたい人がいる。
いつか会うことがあったら、謝りたい。
許してもらえなくても。


それは、まみちゃん。
私は、まみちゃんに、謝りたい。
まみちゃんのことを考えると、少しだけ、胸が苦しくなる。

どうしても忘れられない小学六年生のある休憩時間。


その時、私は、4、5人で音楽室のピアノのところにいた。

ピアノの椅子に座っていたのが、まみちゃんだった。
まみちゃんは、最近、ピアノを習い始めたばかりだった。
まみちゃんは、ずっと習いたくて、ようやく習えたピアノに、嬉しそうだった。


当時、私は、浮かんだことを考えなしに口にしていた。

それで、父によく怒られていた。
「なんでもかんでも思ったことを口にするな。
考えてから喋れ。
特に本当のことは、気をつけて口にしろ。
人を一番傷つけるのは、本当のことだ。」


私は、なんとなく、まみちゃんはすぐにピアノをやめてしまうだろうと思った。

「どうせ無駄なのに。」と、私は言った。

まみちゃんは泣いた。
そして、周りにいた友達は、口々に私を責めた。
「ひどい!」


全くもってひどい。
しかし、ばかは、だってそうなんだもんと思った。
ばか。


だれかの夢が叶ったのを、無駄だと言ったばか。
まみちゃんがピアノをすぐやめたとしても、まみちゃんの夢が叶ったことは無駄ではない。

ピアノを続けることに意味があるのではなく、ピアノを習えたことに意味があったのに。

私が口にすべきだったのは、よかったねえ、だ。


まみちゃんのピアノは続かなかった。
やってみなければ、合うか合わないか、好きか嫌いかはわからない。

やりたいなと思い続けるより、合わないからやめるば、ずっといい。
夢は叶ったのだから。

ばかは、そこが全くわかっていなかった。
私は嘘は言わなかった。
自分が思った本当のことを言い、そして、まみちゃんの幸せに水をさし、まみちゃんを傷つけた。


そして、私は、そのおばかさんのために、もう何十年も、悔やみ続けている。
誰かの夢が叶ったのを喜べなかったばかのために。


その後にも、私はたくさんの人を傷つけたが、一番最悪な傷つけ方をしたのは、愛のないこの一言だ。

夢が叶ったのを無駄だと言った一言だ。



ちなみに、大阪弁では、あほとばかは意味が違う。
ばかは、本当に相手を軽蔑しているときに使う。
あほは、温かみやユーモアをそこに含む。

「あほちゃうか。」は、日常、親しい間柄では、普通に登場する。
あほと言われて怒る人はあんまりいない。
ばかは怒る。

東とは逆のニュアンスを、関西のばかとあほは持つ。


この話に登場する私は、かばいようのないばか。


今日も私は、このばかの残したものと共に生きている。

しかしながら、このばかは、今の私を少し注意深くはさせている。
だからといって、私は、感謝する気にはなれない。


まみちゃん、ごめんなさいと、心の中で100回以上は謝ったが、何の意味もないようだ。


いつか、会う日が来て、ばかの尻拭いができるといいなと思う。
自分の後始末は自分でするしかない。

それまで、ばかと共に生きてゆこう。