自由と幸せ。私の場合

ある時期から、私は、ああ、本当に人生は自由なんだなと感じ始めた。
何に価値をおき、どのように行動し、何を発言するかで人生は作られていくけれど、何に価値をおき、どのように行動し、何を発言するかは、本当に自由なんだなと。


価値は心の中にあり、誰もそれを破壊することはできない。
行動は自分の体がするもので、二十四時間、鎖につけられていなければ、誰にも止めることはできない。
言葉は、自分の口が発するもので、口を封じる何かが口につけられているのでなければ、誰にも言葉を奪うことはできない。


ある時、ああ、本当に自由だ、と、私は感じた。


ただ、だから幸せだとは感じなかった。


自分の価値の中に、自分を幸せにしない価値観を当時の私は持っていた。
自分の行動が、自分を窮地に陥れることがあった。
自分の言葉が、自分と他人を不幸せにすることがあった。


価値も行動も言葉も、自分の思い通りにはならなかった。

なぜ、そう感じてしまったのだろう?
なぜ、そう行動してしまったのだろう?
なぜ、あんなことを言ってしまったのだろう?


自分が自分の思い通りにならない不自由さは、私を苦しめた。
自分が自分を裏切り、自分を窮地に陥れる。
自分は自分の敵だった。

そして、ある時、私は、理由を探すのをやめた。

次は、そうは感じない。
次は、そうは行動しない。
次は、あんなことは言わない。


私は、私を幸せにするために動く。
私は、もう二度と、私を裏切らない。


そして、そこから時間が経ち、またある時、私は感じた。
あなたは中途半端に幸せそうだと、いろんな人に言われた時期だった。


それで私は考えた。
私の幸せは中途半端らしい。
なぜ、自分は思い切り、幸せになろうとしないのだろう?


私は気がついた。
幸せな世界は退屈そうだと自分が感じていること。
だから、私は、悩みの全てを手放そうとはせず、自分の人生について悩み続けようとする。
悩みがない世界がやってきたら、私は何をすればいいのだろう?


私は、体験したこともないくせに、満たされている人生については、退屈だというイメージを自分が持っていることに気がついた。
それから、天国のイメージが、私が満たされることを邪魔していることにも気がついた。

自分が何もしなくても、神さまが全部用意してくれる世界。
洋服を着ない世界。
考えるなと言われる世界。
ただ、うふふふ笑っていればいい世界。

それのどこが天国なのか、私には理解ができなかった。
実に退屈そうである。
服は着させてくれ、私はおしゃれが好きなんだと私は思った。
物を考えさせてくれ、私は思考が喜びなんだと思った。

個人的にはリンゴを食べた2人に拍手喝采だ。
もともと私は罪まみれだ。
2人がリンゴを食べなくてもそうだったろう。


それから、私は、でも、それは自分じゃない人に用意されていた満たされた世界、満たされた天国だと思った。

私が満たされた時、天国のような世界を生きる時、そこにあるのは、別のものかもしれないよ?

退屈じゃない幸せかもしれないよ?


人生は、自由だ。
幸せには、たくさんのバリエーションがあるかもよ。
自分次第かもよ?


とりあえず幸せそうな人がいいと言うことを全部やってみなはれ、と、私は自分に思った。
幸せそうじゃない人がいいよという話には、耳を貸すな。
それは机上の空論か、もしくは、効果がない方法だ。

そして、いろいろ試してみて、楽しくなかったら、また、ここに戻って、中途半端な幸せを生きればいいよ。
今も悪くはないのだから。


また時間が経った。

私は、自分が幸せかどうか、気にしなくなった。
だから、よくわからない。
満たされているかどうかに無頓着だ。
どうでもよくなった。


私の価値観は私を苦しめない。
私の行動は、私を裏切らない。
私の言葉は、少なくとも、なんであんなことを言ってしまったのだろうと、私を苦しめない。

私は、私と仲がいい。

そして、私は、退屈していない。
自分の人生について悩みがなくても、考えることは山のようにある。


そして、ふと感じた。

自分が幸せかどうか、満たされているかどうか気にしなくていい状態が、最も自由で、幸せな状態なのかもしれない。

私にとっては。