その朝

その朝、母がはっとした表情で言った。
「お姉ちゃん、コンビニに行ってきて!」

猫の缶詰を買えるだけ買ってきてと、母は言った。
妹に抱かれた猫は、ガタガタ震えていた。

私は、ところどころ、穴があいたり、陥没していたり歪んだりしている道を、自転車に乗ってコンビニに行った。
コンビニは人で溢れかえっていた。
怪訝な目で見られながら、私はあるだけの半分の猫の缶詰を持って、長い列に並んだ。
心の中で、猫が食べるんです!と思いながら。
恥ずかしかった。
買い占めずに半分残したのは、同じような人がいるかもしれないと思ったからだ。

母が真っ先に確保しようとしたのは、猫のエサだった。

家に帰ると、お風呂の水を貯めていた母が、今度は「お姉ちゃん、電話してきて!」と言った。
妹は、震える猫を抱いて、ソファに座っていた。
私は、私もあっちがいいと思いながら、歩いて二分の公衆電話に向かった。
外は寒かったのだ。

公衆電話には、長い長い列ができていた。
電話はつながったり、つながらなかったりした。
手の中の百円玉が冷たかった。

私は、一時間くらい並んで、何度めかにつながった相手に向かって、「父はいますか?」と言った。
その頃、父は九州に単身赴任していた。
電話口で「〇〇さん!娘さんから電話!」とやや興奮気味に叫ぶ声が聞こえて、それからしばらくして、父のいつもの明るい声が聞こえた。
「おう、生きとったか」と父は笑った。
その声に少し涙が出た。
「うん。家はぐちゃぐちゃ。猫はずっと震えてる」と私は言った。
「そうか。お母さんは大丈夫か?」と父は尋ねた。
私は、「なんか張り切ってる」と言った。

それから家に戻ると、妹はまだ、猫を抱いていた。
結局、その日一日中、妹は震える猫を抱いていた。
猫はいつもは抱っこを嫌がったが、その日は妹から離れなかった。

母は、ゴソゴソ動いていた。
そして、「水とガスが止まった」と言った。
水はしばらくだけ出ていて、それから止まった。
水とガスは、それから三週間止まっていた。


私は、二階の自分の部屋に戻り、自分のベッドに背の高いタンスがかぶさっているのを眺めた。
もし、昨日の夜、ちゃんとベッドで寝ていたら、死んでたなと思った。
よくぞ、コタツで寝てしまい、よくぞ、自分の部屋で寝ろと起こされなかったものだと思った。

私は、散らばったものをガサゴソ端に寄せはじめた。
そして、その中に寿司桶を見つけた。
寿司桶は、一階の台所の納戸に入っていたはずだ。
どうやれば、ここまで上がってこれるのだろう?と私は思いながら、寿司桶を抱えて、階段を降りた。

私が、母に「お母さん、寿司桶が部屋にあった」と声をかけると、母は「あらまあ」と言って少し笑った。
妹は相変わらず、猫を抱いていた。
家は時折揺れていた。

揺れる家に、私は片付けにすっかりやる気を失い、妹と並んで黙ってテレビを見た。
見たことのない景色が繰り返し流れていた。

やがて母がやってきて、「同じことばかり!」とブチ切れて言い、テレビを切った。
私と妹はため息をついた。

その後は、その日の記憶がない。


次の日、父が水を持って帰ってきた。
空港から歩いて帰ってきたのだと言う。
飛行機は飛んでいた。
「途中でな、潰れた駅の隣のパチンコやが営業しとったわ。中を覗いたらな、打ってるおっさんがおったわ」
父は笑っていた。
「あなたは体験してないから笑えるのよ」と母が切れたが、体験した娘たちもまた笑っていた。
母が恐怖でピリピリしていて、しかも危ないと外出禁止令が出ていたため、家にいるしかなかった私と妹は、それにやや疲れはじめていた。

父ののんきさは救いだった。

その夜、用事があって両親の部屋に行くと、ガタガタ震える母を父が抱き抱えていた。
私は、お母さんだけが怖かったんじゃないのにと思った。

父はそれから一週間家にいて、また九州に戻っていった。
父がいた間はまだよかったが、母の恐怖から来るストレスは、日に日に増していった。


一週間後、私は、食料の買い出しとバイト先に顔を出すために、近所の友達と2人で大阪まで出た。
大阪は本当に普段通りで、私と友達はややショックを受けた。
バイト先に「お母さんが出かけちゃいけないと言うので、しばらく休みます」と伝えた。

学校の方向へ行く電車は動いていなかったので、大学には少しの間だけ行けなかった。


その日の夜、家の裏で家事が起きて、子供が2人亡くなった。
電化製品からの出火が原因だった。
後から、同じ理由の火事がいろんな所で起きたらしいと、近所の大人達が話しているのを聞いた。

火、煙。
救急車や消防車、新聞記者、泣き叫ぶ母親。大人たち。
私は、それらをただ眺めていた。
家に帰ると、また、猫がガタガタ震えながら妹に抱かれていた。
(猫はその後、ストレスから病気になり、二週間入院した)


それから、母が、バイトに行くのを許してくれるまでしばらくかかった。
私が枕元に靴を置かずに、パジャマを着て眠れるようになるまでに二ヵ月かかった。
寝ている途中に目が覚めなくなるまでには、もっとかかった。

その日の話を、みなが普通にし始めるまでには十年以上かかった。
身内を亡くした人がいるかもしれないから、誰も進んでその話はしたがらなかった。
自分より大変な思いをした人の方が多いから、言うのはなんだか申し訳ないような気もした。



長い長い時間が経った。
同じようなことが、いろいろな場所で、何度も起きた。

 

そして今、私の家には、常時、大量の猫とうさぎの餌、そして水がストックされている。
それが命と家があってインフラが止まったら、真っ先に私が必要とするもの。