勝負に大人も子供もない

私の父方はギャンブラー一族だ。

子供の頃のお正月、一月二日は必ず父方の祖父母の家に行った。
行くと、すでに、そこには、点数が上がりすぎないようにヤクを抑えた花札に興じる大人たちの姿があった。
幼稚園に入ると、私にも参加資格ができた。
花札とカブは、次の日の朝まで続いた。

そういうわけで、私の花札キャリアは長い。
でも弱い。


一月三日、新幹線に乗って、今度は母方の実家に行った。
そこでは、従兄弟たちと坊主めくりや将棋盤を使ったスゴロクで遊んだ。


お正月を祖父母の家で過ごさなくなったこの十年。
一月二日は、実家で、そのどちらもをして過ごすこととなった。

ノリは、父方の実家のノリが導入された。


カモは、賭け事や勝負をしない家で育った夫。
最初の数年、夫は、小学生の姪っ子にまで負け続けた。
彼は、勝ちに対する真剣さが薄く、勝ちにいこうとしない。
しかし、姪っ子は引き継いだDNAから、負けん気が強い。


勝負に大人も子供もないというのが、実家の教えで、私は小さい頃、負け続けた。
特に父は、一切、手加減をしない。


たとえば、私の実家では、朝、おせちとお雑煮を食べた後、お年玉がもらえるシステムだったが、私は食べるのが遅く少食で、いつも最後までお雑煮を食べていた。
(私の実家は、何かしなければお正月でもお金はくれなかった。誰かを喜ばせなければお金がもらえないので、私は小さい頃から、家庭内アルバイトをしていた。)

小学生だったある年、私は、その数時間前になんとかお雑煮を食べてもらったばかりのお年玉袋の中身をすべて、失った。
父に負け続けたからだ。

私は、悔しさのあまり、えんえん泣いて、自分の部屋に上がり、その後、一日中、部屋でふてくされて過ごした。
家族は、大爆笑していた。


そしてその話は、今に至るまで、毎年、語られる。


私は負けん気は強いが、賭け事には強くない。
父は天才的だ。

今年、父は花札で連勝を重ね、ついに一度も負けないまま、場から抜けた。
場から抜けたあと、一度だけ、私の後ろで、私のやり方を見ていて、父は言った。
「やり方が間違えている。」

そして、そうしなければ勝てないと、勝ち方を教えた。
「四十年前に教えて欲しかったよね。」と、私は言った。
父が、「勝ち方」を私に教えたのは、初めてのことだ。


その後、トランプの七並べで、負けを取り返すことにした一同に呼ばれて場に戻ってきた父は、またしても、勝ち続けた。

人の目線や手の動きで、誰が何のカードを持っているのかわかるのだという。


「じいじを負かせるものでやらんと、じいじに全員巻き上げられる!」と姪っ子が言い出し、みなが選んだものは、誰にも公平な坊主めくりだった。

それはいたくシンプルなゲームで、ひっくり返した百人一首の絵札をいくつかの山にわけ、順にめくっていくだけの遊びだ。
絵札は三種類。
普通の貴族の男性。
お姫様が出たら、もう一枚引ける。
坊主が出たら、手持ちのすべてのカードを場に出す。
次にお姫様を引いた人が場のカードをもらえる。
最後に一番たくさんのカードを持っていた人の勝ちだ。

順番は、私、父の並びだった。

最後の一周、私の手持ちは、誰よりも多かった。
そして、場には、二枚の裏返された絵札が残っていた。

私が、坊主以外を引けば、このゲームは私の勝ちだ。
確率からいけば、ほとんど勝ちだ。


私が引いたのは、坊主だった。
きゃあ!と叫び声を上げ、場にカードの山を出す私の隣で、父はさらっと残った絵札をひっくり返した。


そこには、お姫様がいた。


「じいじに勝てるゲームは何?!」と姪っ子が言い、大爆笑になった。


「君は、もしまだ子供なら、これは泣いて二階へ上がったな。」と、父は、私の方を見て笑った。
泣くわよ、と、私は言った。



私は、自分の勝負弱さと、負け、を知っている。
負けるのが嫌いなことも知っている。

それは、体で覚えたことだ。


だから、私は、基本は誰とも勝負はしない。
競争もしない。
競争や勝負をしないで勝つ方法を考える。
自分の弱みは使わない。


それが、勝負に大人も子供もないというギャンブラー一族の中で、そのDNAを持つ私が身につけた、私の勝負の仕方だ。


そして、私は、今年、なぜ、父がそれを私に教えたかは謎だが、新しい勝ち方を覚えた。
その勝ち方は内緒だ。
父が四十年明かさなかった秘密だ。
他人に教えるわけにはいかない。

そのひとことは、なぜ、父が、未だに会社から引き留められて働き続けられているかを、私に納得させた。
彼は負けなかったのだ。
おそらく一度も。

当たり前のようなことだったが、秘密だ。
目をくらませるものに惑わされるなという感じの秘密。


2020年は、何か変わるかもしれない、と、私は思った。

勝負しよう。