千日前で幻と気づき

大阪の真ん中あたり、グリコの大きな看板で有名な道頓堀からほど近くに、千日前という商店街がある。
お笑いの吉本興業のお膝元、コテコテの大阪だ。

昔、革ジャンを着た祖父と、まだ小さな孫三人は、そこを時々、闊歩した。
アニメ映画を見て、クリームソーダを飲み、蓬莱の中華を食べるために。

雑踏の中、何を見たのかはよく覚えていない。
映画館に続く階段を降りていったことだけ覚えている。

そこから少し離れたエビ料理やは、祖母のお気に入りで、何かあると、少しだけいい服を着せられて、そのエビ料理やの個室でコースを食べた。


今年、私は、夫とそこにいた。
なんば花月でお笑いを見るために。
千日前の雑踏を歩いた時、ああ、お正月だと思った。


ステージの上にいた漫才師たちは、ものすごかった。
連日、殺人的スケジュールで舞台をこなして、疲れすぎてわけわからなくなっていたのかもしれないが、神がかり的に面白かった。

笑いを取り続けるって、すごいわね、と感動は、、、しなかった。
とにかく、手をたたいて、爆笑し続けた。

終わったあと、体がすっきりしていた。


そして、また千日前の通りに戻った時、全く関係ない感情が浮かんだ。
何について、そう思ったのか謎だが、私は思った。


知るか。
私の知ったこっちゃない。


何を?何に?

わからない(笑)
けれど、深いところから、笑いと共に、その思いは登場したようだった。

何かに怒っているみたいな、知るか。
けれど、軽やかな知るか。


そして、私は、千日前に幻を見た。
小さな子供三人を連れて、革ジャンを着て歩く祖父の背中。

その背中は、知るか、と言っているように見えた。


それから、父の言葉を思い出した。

ビジョンが見えているならば、他人のことは一切気にしなくていい。
評価は後からついてくる。
ビジョンがそこにあるならば、信じたように、やりたいようにやれ。


そして、私は、もう一度、知るか、と思った。
相変わらず、何にかはわからなかった。


しかし、見落とし続けたもの、見過ごしてきたもの、自分が気づいておらず、使ってこなかったもの、それらを使うために、知るかが必要な気がした。


それにしても、相変わらず、私の深いところは、爆笑で動く。

私の生きる力は、笑いかもしれない。