私のクリスチャンライフなるもの
当初、私がクリスチャンになったことを、私は公にするつもりがなかった。
仕事が、思想信条を持ち込むとややこしい業種であるし、ごくプライベートなことであるし。
しかし、私は、途中で考えを変えた。
なぜならば、私のクリスチャン話が、異常にウケることに気がついたからだ。
ウケる話は、大歓迎。
私は、持ちネタに、自分がクリスチャンであることを加えることにした。
大抵の人は、興味しんしん、笑いながら話を聞く。
しかし、今日は、まじめな話を書く。
よかったことについて。
ひとつ、私の精神衛生上に、非常にヘルシーな効果をもたらした、これぞクリスチャン!という、新しく加わった習慣がある。
それは、お祈りである。
知ってる人も多いと思われるが、クリスチャンが信じているのは、全知全能、神さま界のスーパースター、奇跡を連発した唯一絶対の神である。
日本語だから、気楽にかけるが、世界には他にも唯一絶対の神さまは他に存在し、誰が唯一絶対かというと戦争が起きる。
日本は平和でよかったわ。
それはさておき、クリスチャンになると、この唯一絶対の神さまが、願えば何でも叶えてくれることになっている。
願いを聞いてもらうには、ただ、神さまを信じればよいのだ。
なんて簡単!
私は素直にそれは信じた。
便利なものを信じない理由がない。
そして、私は、祈りはじめた。
自分にできることは、わざわざ祈らない。
祈るより、自分でやる方が早い。
神さまも何億人もの相手に忙しかろう。
自分でわかることもわざわざ祈らない。
自分で考えた方が早い。
ちなみに、この自分の考えも、神さまから与えられているということになっているから、わざわざ祈る意味はない。
私が祈りはじめたのは、自分ではどうしようもない他人のこと。
ほとんどそれ。
自分については、祈る内容があまり思いつかないので、とりあえず、お礼だけ言ってみることにした。
これが、精神衛生上、非常によかったのだ。
例えば、誰かが悩みを話してくる。
仕事であれば、私の頭の切り替えは早く、聞いて三分後には、私は話を忘れることができる。
しかし、家族がそうしてきたら、私の頭は話した後もそのことを考えようとする。
考えたってどうにもならない。
自分はどうもできないことに、クライアントも家族も変わりはないが、私も人のこだ。
ところが、私は、これを考えないようにすることができるようになった。
私にできることがある、と、私が気づいてから。
私は、他人の人生には介入できない。
しかし、他人の人生のために、祈ることはできる。
そして、私は祈りはじめた。
するとどういうことでしょう?
私は聞いた話を忘れることができたのである。
他人の悩みを神さまに預けるというやり方で。
私が考え続けるよりは、その悩みが解決する確率も上がろうというものである。
何しろ、全知全能だ。
というわけで、私は、より自分のことを考えられるようになった。
何か他人のことを思いわずらう時間が、ものすごい勢いで減ったからだ。
私はただ、その人の幸せ、その人の心の平和、その人に必要な知恵、その人に必要な出会い、それらを与えてあげてちょうだいよと、祈るというかお願いしておけばよいだけなのだ。
そして忘れる。
だって、もうできることが、今は、何もないから。
ヘルシー!
なんて、ヘルシー!と私は思った。
祈るのは、歩きながらでも、電車に乗ってても、自転車をこいでいても、鍋をかき回しながらでもできる。
必要なのは、頭の中だけ。
なんて、簡単!
私はドライな人である。
割に現代っこ気質で、加えて、神秘とかは好みでない。
祈りについても、非常に現実的な効果をもたらすものとして、それを捉えている。
気休めなどいらない。
自己満足もいらない。
効果がないなら、私は祈らなかった。
しかし、これはすごかった。
どう考えても、まじめでも敬虔でもない、神さまに謙りもしない(だって敬語は日本語よ)、今が中世ヨーロッパなら火あぶりリストに確実に掲載されたはずの私の祈りすら、叶う。
自分がやらずにすむようになったことが、この一年はやたら多い。
スーパースターはなかなかやる。
というわけで、私は当分クリスチャンだと思われる。
当分は一生かもしれないし、はあ?!と思ったらやめるかもしれないし。
結果は、神のみぞ知る。