願いが叶った記憶

経験的には、願いを叶える行程で、一番時間がかかるのは、願いが生まれ、願いが言葉で理解できるまで。

願いは、蝉の一生みたいなものだと時々思う。
長く土の中で育ち、その間は気づかれない。
ある日、ぽんと生まれたように見え、そして、華々しく叶って消えていく。
叶ったあとに残るものは、体験したことの記憶だけ。


記憶だけ。
だが、この記憶が、人生の中で大きなウエイトをしめることは、割とたくさんの人が知っているのではないかという感じがする。


自分が過去に経験した、つらいこと、悲しいこと、腹が立ったこと。
それらは、記憶だ。
今、目の前で起きていないそれらに自分が振り回された経験を持つ人は、割といるのではないだろうか。
ネガティブな体験として。


誰かが、ああ、きっと、「また」、怒られる、、、と思ったなら、その人は、過去に怒られた経験がある。
「まただ」「いつもだ」というときは、過去の記憶がそこに影響している。


なにかと注目されるのは、自分にとって不快な体験の記憶がもたらす影響のことが多いけれど、これは、嬉しい幸せな体験の記憶についても同じように影響がある。

そして、それは大体の場合、本人にいい影響を与えることが多い。
成功体験を持つ人が強い、といわれるのは、トラウマ体験が人生に影響を与える仕組みと同じだ。

どちらも、体験の記憶が影響している。
違いは、トラウマになる記憶は、自分の意思で体験したものではないけれど、成功体験は、それを作るという自分の意思が大きく影響することだ。


そして、願いを叶える、という成功体験は、人生の中において、自分の意思でその人が作ることができる、数少ない体験のひとつだ。
その後の人生をさらに豊かにするための記憶を作るために。

人生の中でする体験には、本人が選べないものが多くある。
そちらを主に眺めると、人生は無力感の塊だ。
生まれた場所、気候、子供の学習システム、社会のルール、戦争、育つ環境。


願いを抱くことは、数少ない、自分の意思で選べる体験の選択だ。


そして、なおかつ、私、これはもう自信を持っていいきるけれど、誰かの願いが叶うことは、何を望んだかにもよるけれど、それは他人をも幸せにすることができる。

他人の記憶にも、幸せな体験をひとつ増やすことができる。
自己犠牲なしで。

他人への感謝に満ちた状態で。
祝福の中で。

その人にいい影響をもたらす可能性がある記憶を分かち合うだけで。


そこには、生きる希望がある。
私が、願いを叶える方法を研究し続けてきたのは、それが、絶望の対極にあるからだ。

そして、心から願った幸せな1日は、何百回のセッションや何万冊の本よりも、その人を癒す。


私が人と分かち合いたいものは、生きる希望だ。
願いを叶えることは、そのための手段として非常に有効な働きをする。


まだ続く。