かみさまというメタファー
なんら宗教的な話ではなく、メタファーの話。
言葉の話だ。
それぞれ個人の持つメタファーや言葉には定義がある。
そして、それぞれのメタファーの定義や概念、その効能や能力など、ともかくそのメタファーに関わることは、そのメタファーを所有する本人が決めている。
辞書でもなければ、本でもない。
本人が決めている。
同じ宗教を信仰する人を集めて話を聞いてみればよくわかるが、みな違うことを言う。
ひとつでも違えば、定義は同じではない。
外側から知識として与えられる言葉の意味は、社会生活を営むにおいては、役割を果たすが、個人の人生においては、学校で習う言葉の意味は、まるで無視されているみたいなもんだなと、セッションをしていてよく感じる。
そんな中で、かみさま、というメタファーは世界中に存在すると言って過言ではなく、太古の昔から地球で使われてきた古い言葉の一つだろう。
セッションでも、時々、普通に登場することばだ。
たしか卑弥呼もかみさまに祈っていたし、エジプトにも、ギリシャにも、メソポタミアにもかみさまはいた。
どのメタファーにもそういうところはあるけれど、このかみさまという言葉が割と持っている定義は、その存在を信じるか信じないかということで、そのメタファーは効果があるかないかが変わるところ。
このメタファーは、割と力があるということに太古の昔からなっているが、現代においては、いないということになっていることも割とある。
そしてまた、このメタファーが面白いのは、言葉は同じなのだけれども、外側でされている定義が、文化や宗教によって異なることだ。
しかしながら、個人がそれを理解していくとき、その文化や宗教がした定義で、そこに属する人がみな同じ理解をするかといえば、疑わしい。
信頼、遊び、希望、夢、というような簡単な言葉ですら、人は同じようには理解しない。
学校、会社、コップといったものですらら同じ理解は持っていない。
だから、、かみさまというダイナミックで幅広いバックグラウンドを持つ抽象的な言葉を、それぞれがどこまで同じ理解を持てるかは、私の見解ではかなり難しいだろうと感じる。
メタファーという言葉、ということでなら、それは、存在を認める人には存在するし、存在を認めない人には存在しない。
本人がない、といえば、それはない。
本人がある、といえば、それはある。
メタファーとは、そういうもので、それは全くもって個人の自由というか、そうしかありようがないものだ。
ただ、遺伝子が知る知識の中に、かみさまというメタファーは、それは他の言葉かもしれないけれど、組み込まれている可能性は高いだろうな、、、と時々思う。
単に、その言葉が、古いからだが。
そして、国ごと巻き込む力を、その言葉は度々、歴史の中で発揮してきたからだが。
まあ、歴史を見る限りは、だいたい、この言葉が社会の前面に出る時、庶民は大変な目に合うというパターンが繰り広げられているが。
パワフルなことばであることには違いないが、それで国が統治される時、そこからは自由が失われるという不思議な構図。
メタファーの定義が、個人によるものではなく、これが正しい定義だ、と押し付けられた時に生まれる状態だろう。
それはつまり、心の中の自由を認めない状態。
と同時に、古い言葉の中には歴史があるから、それはただ効果をもたらすだけのメタファーでもなく、癒す必要がある場合もあるかもしれないな、と時々思う。
まあ、どちらにせよ、そのメタファーを定義づけていき、育て発展させていくのは個々。
未来の世界で、かみさま、というメタファーは、どのような発展を遂げるのだろう?