信じた時に起きること

何かを信じた時に起きることは、実に様々だ。

信じる、は動詞だ。
思う、感じる、考える、と同じように体内で起きる何かを表している。


動詞の仲間である、歩く、飛ぶ、走る、歌うなどとと違い、他人からは起きた何かが確認できない。
歩いている人を見れば、ああ、あの人は歩いているな、とわかる。
もし、歩いている人が「走っているの!」と言ったら、違う違う、それは歩くだよと他人にわかる。


しかし、信じるは話が違う。
他人が信じている時、そこに何が起きているか、外からはわからない。
だから、信じる、について、人は、自らの主観で、自分が信じているか信じていないかを判断するしかない。

違う違う、それはただ思い込んでいるだけだよ、とか、それはただ考えているだけだよ、とか言うことは誰にもできないのだ。

そして、それは、何が起きることを意味するか、何を意味するか、実際のところは誰にもわからないのだ。
ただの思い込みと、信じていることの違いを、どうやれば外側から判断できるのだろう?

他人の信じると自分の信じるの違いを、どのように人は見極めているのだろう?

信じている度合いの深さを、いったい何で測っているのだろう?
しかし、人は見極めたり、測ったりするのだ。


その基準に使われているのは何だろう?


歩くならば、話は早い。
足が両足共、地面から離れていれば、それは歩いてはいない。
飛んでいるか、走っているかだ。

見ればわかる。


信じている、は、外からはわからない。
どうやって見極めているのだろう?


自分の信じると、他人の考える、は同じかもしれない。
自分の信じると、他人の思うは同じかもしれない。
自分の信じると、他人の信じるは違うかもしれない。


何の疑いもなく、自分のそれは正解で、他人のそれは違うと、迷いなく言うことは、私には非常に難しい。

確認が取れないからだ。


信じている人が取る行動は実に様々だ。
そして、信じることの力の作用も実に様々だ。
精神的にだけ作用しているように見えることもあれば、行動そのものに作用しているように見えることもあり、まるで、信じるには作用の違う種類の信じるが存在しているようだ。


非常に面白い動詞だな、と思う。
今さらながら、興味深い。