輝く願い

ゴールデンウィークの最中、夫とNetflixで映画を立て続けに見ていて、次、何見る?とテレビの画面をちゃかちゃかいじっていた時。

ロバート・デニーロが主演のハートフルな映画を見た後で、少し違う感じのものがいいねえと言っていたら、数年前に流行った、引き寄せについて書かれたベストセラーの本を映画化した映画が、目に留まりました。
私はその本は、立ち読みでパラパラ見ただけで買いませんでした。

その類の本は、肝心のところを書かないことを知っていたのと、イメージ「だけ」では、現実は生まれないという当たり前のことを知っていたからです。

立ち読みした時、最初の方には、世界の偉人は秘密を知っていたと書かれていました。
きっとそれは本当のことでしょう。
だけれども、その偉人たちが、どれだけの努力と、どれだけの時間をその偉業に割いたかに対するリスペクトはどこへ?と、私は思ったのでした。

現実は霞か?と思ったのでした。
才能と引き寄せ、感情で全部片付ける気か?

大きな要素であることは否定しませんが、全てではありません。
それで買うのをやめたのです。


というわけで、その時読む気がしなかったその本が原作の映画でしたが、なんとなく、これ見る?と再生ボタンを押したそのあと。


結論からいうと、知らないことは何一つ登場しませんでした。
やはり、なぜにこの本がベストセラーになったかが私にはわかりませんでした。

ここは説明が足りない、これではできない、とか、ここで引っかかる、ここをもう少し言わないと生まれつきポジティブな人しか無理だとか、これメタファー、これアウトカム、とかぶつぶつ解説を加える私に、夫は苦笑していました。

その本が元になった映画には、決定的な情報がひとつ欠けていました。
思考を変えれば全てが変わる、に異論はなく、人の幸せを願う素晴らしい内容だとは思いました。
そこに疑いはありません。
しかし、思考を変える方法が、何一つ語られていなかったのです。
これじゃ、できねえよ、と私は言いました。


私の経験から言うならば、そこに苦戦する人が多いのです。
(だから、私の仕事が成立しているとも言えます)

そして、「生まれつき」ポジティブであるかどうかで、話を終えてしまう人が割といること、ポジティブになる方法に目がそれてしまうことも多々あることを、よく知っています。


願いに、その人がポジティブな性質かどうかは全く関係ありません。
願いは願いです。
願いを叶えるのに、性格を変えるところから始める必要はありません。

ネガティブな性格だと思うのであれば、それを利用すればいい。
使えるものを全部使えばいい。
持っているものを使えばいいのです。
悪い働きをしなくなった時、ネガティブな要素はネガティブではなくなります。


と私がいうと、だから、君、それがポジティブなんだ、と夫は笑っていました。

ようするに、ネガティブな要素などないと君は言いたいんでしょ?と夫が言ったので、私は、願い、という1点に話を絞るなら、ネガティブな要素はない、使いようだ、必ず裏にポジティブな要素が隠れている、そして、ネガティブな部分が強いのであれば、その裏のポジティブも強い、むちゃくちゃ使えるはずだ、と言い切りました。


ポジティブだな、と夫はまた笑いました。


私が生まれつきポジティブなことを否定はしませんが、ネガティブな要素がポジティブな要素とくっついているのは本当のこと。

そして、願いを叶えていくプロセスが、ただ楽しいだけなんて、大嘘。
楽しくする努力を、どれだけできるかなだけ。

楽しくないからこのプロセスは間違えているなんてこともない。

それこそ、世界の偉人の偉業を考えてみればすぐわかること。
アイデアが浮かばない夜、壁にぶちあたった瞬間、楽しいわけがない。
試行錯誤の末に、それらは生まれたのです。

それでも、失わなかった願いが叶う願い。
迷わないように先で輝き続ける願いが、叶う願い。


そのために、願いが生まれる最初の最初に、願いをできるだけ輝かせるのです。
私がセッションでメタファーを使ってしているのは、この部分。


願いを描いたそのあと、一歩踏み出したら、そこには暗闇だってある。
迷う日もある。
苦しい日もある。


それでも、輝く願いは、灯台のように、こっちだとその人を導き続ける。
その光が強ければ強いほど、光を信じることができる。


だから、最初にアウトカムを出すセッションをしている、と、映画の終わりに思ったのでした。


つまり、映画の目的と私の目的は同じ。

人の幸せを願うこと。