ある母と娘のはなし

私の母が、私の母でなければ、私は仕事のひとつ、セッションをしてこなかったかもしれない。

実際、10年前に成り行きで、お金をもらってセッションを始めた頃、私が手を伸ばしたかったのは、お母さん達とこれからお母さんになる可能性がある人達だった。

私は知っていた。
母親が子供の幸せを望むように、子供も母親の幸せを望むこと。
母親の幸せは、子供の幸せに影響すること。


なぜ、お母さんはわからないのだろう?と、小さな私はよく思った。
なぜ、私に対する責任とか、私に幸せになって欲しいとか言うのだろう?

なぜ、自分が、幸せになろうとしないのだろう?


そして、小さな子供は誤解した。
母親がいつも自分に怒っていたり、つらくあたったりしたからである。

お母さんは、私がいるから、幸せになれないのだろうか?


小さな私は、小さな頭で考え、やがて罪悪感でいっぱいになった。

私さえいなければ、お母さんは幸せだったに違いない。


大人には大人の事情があり、人生があると知らない小さな子供の明らかな誤解だった。
だがしかし、この誤解を私が解いた時、なんと私は30歳すぎていた。
そして、その罪悪感は、その頃までには、私の人生に様々に影響を与えていた。

25歳の時に、自らが生み出した自分の存在価値を全て失い、私は、自分の存在について罪悪感を抱いた。
そして、死に希望を見出した。

不思議なことだが、その時、自分の死を悲しむ誰かがいるということに、私は思い至らなかった。
誰かにとって、自分が大事な存在であるということに考えが及ばなかった。

私がそういう状況にあったことは、実際には、多くのひとを苦しめていた。
今でも、私の両親や友達の一部は、その頃の話になると苦しそうな顔をする。

私は私を癒したが、私のために傷ついた彼らの傷は癒えていないと、その顔を見ると私は自分の罪深さを感じる。
だが、同時に、私が幸せそうであることが、彼らを癒すことも知っている。

私が、自分の罪深さを自覚するならば、私は幸せそうであり続ける以外の選択肢がない。

自分の人生に誰かを巻き込んでしまったことへの贖罪は、幸せでいる努力をすること。


その過程を経た後、私は、母はそれでもあの頃、幸せだったのだろうと受け入れるに至った。

しんどそうだったけれど、幸せだったのだろう。


やがて、ある時期、母がしつこいくらいに言い始めた。

お母さんは、ただあなた達2人が幸せならば、それで幸せなのよ。
お母さんは、本当に、あなた達の幸せだけを望んできたの。
あなた達が幸せなら、お母さんは、ほかに何にもいらないの。
それを信じて欲しいの。


私と妹が、それなりにそれぞれの形の幸せを、自分達の力で築けるようになっていた頃だった。


そして同じ頃、言った。
いつか、あなた達の人生にお母さんが邪魔になる日が来たら、お母さんを捨てなさい。
迷わず、捨てなさい。
お母さんが望むのは、あなた達の幸せだけだ。
あなた達の人生を邪魔したくない。


そして、そのあたりから、母は変わり始めた。
彼女は、自分の人生に手をつけ始めた。


そして、何かあると、私に相談してくるようになった。

そして、私は小さな私の抱いた罪悪感の源を知った。
小さな私は、自分が、お母さんの役に立たないことに罪悪感を抱いていたのだ、と。
小さな私は、お母さんを助けたかったのか、自分が小さいことに罪の意識を持ったのかと理解した。


そして、私は、小さな自分の祈りのような願いを、叶えてやれたことに満足した。
私は、40歳過ぎていた。


近頃、母は、私と妹に思い出を残そうとしている節がある。
私達家族は、家族全員で撮った写真をほとんど持たずに来た。
みんなが笑顔の家族写真は、2年前くらいに撮ったものが最初の1枚に近い。


今、私が願うことは、かみさま、もう少しだけ、少しでも長く、もう少しだけ、もう少しだけ。


そして、今、再び思う。

私は、お母さん達を幸せにしたい。
誰かの娘達を幸せにしたい。
小さな私には、話が聞けなかった。

今、私は、話を聞くプロだ。


今を生きる、どこかにいる、まだ話を聞けない小さな私達のために、私は、お母さん達の人生について、話を聞きたい。
どこかにいる、自分の娘の幸せを願う老いた母親達のために、私は、娘達の話を聞きたい。


なぜならば、母親の幸せは、子供の幸せだと私は信じるからだ。
子供の幸せは、母親の幸せだと信じるからだ。


そして、きっと、それはまた、苦しみながら子育てをした私の母の願いでもあるだろうと思うからだ。


母が私に40年かけて教えたものは、母親でなければ教えられなかったことだった。