私には大層な願いはない

う〜ん、そんなに大層な願いはないのよね。


たまに耳にします。
私は、それを聞くたびに、ほんまか?と疑います。

日本人の多くが願う大層な願いをひとつ、私は知っているからです。
それは、持っているものの保持なので、願いとしては気づきにくいですが、何かを保持したいというのも願いです。

元号が変わる際のアンケートでも、それは割と高い位置に漢字として登場し、そして、新しい元号の中にも、その一部は漢字として入りました。
その文字の英訳はharmonyでした。ハーモニー。


古い町並みを歩けば、その願いが書いてある白い棒に出会います。
誰が立てたのだろうか?
私が小さな頃にはすでに立っていましたし、今も立っています。
相当に時間が経っていますが、その白い棒に書かれた文字が霞んでいるところは見たことがなく、誰かが、手入れをしているのでしょうか?

その願いは、この国を確かに構成しています。
政治家ですら、その願いに非常に気を配ります。
その願いをどう扱うかは、選挙の結果すら左右します。


日本人は、全体としては、日常的に祈らない宗教アレルギーの国民性の国家ですが、年に一度、集団が祈る時期、つまりおそらく、初詣でも、かなりの人数がそれを祈っていると推測されます。

祈る、は、願うこととほとんど同じ意味です。

この国には王様がいますが、その王様がメッセージとして発し続けているのもそれで、この国の王様は他の王様とは少し違い、祈るのが仕事ですが、おそらくそれを祈り続けておられるはずです。
そしてこの度、メッセージとして発信されたのは、それを世界に広げていくことでした。


それは、非常に、大層な願いです。
まだ、誰も、見たことがありません。

でも、確かに、この国では、その願いは幅をきかせ、その願いを叶え続けている中に、私たちは生きています。

つまり、小さなひとりの願いが、集団の願いであるとき、それは世界を動かす力を持つという証明を、日本という国は成し遂げています。


最初にそれを願った人々は、それが「ない」ことがどんな悲劇を生むかを味わった人々でした。
それがないことが問題だった中を生きた人々です。

今、それが「ない」ことは、想像しにくい中を私たちは生きています。
それは、私たちが生まれた時には当たり前にあったからです。
それは、常に「ある」ものです。
新聞やネットで読むものは、体験とは言いませんから、少なくとも、それがないことを体験したことは、ほとんどの人がありません。
今日、それを体験するためには、国から出ない限りは、体験できません。

それは、持っているもの、で、多くの人が、好みます。
それは、個人が、個人の人生を生きるための条件のひとつです。


つまり、それは、願いであり、リソースであり、必要条件です。
そして、願うことは効果がある、と、日本人が証明できたことのひとつです。


願いと幸せには、特徴があります。
最初は、個人からそれははじまります。

そして、個人的なことが満たされに満たされると、次に、人は、自分以外のことを個人のこととして願い始めます。

なぜならば、個人の願いを叶えていく過程で気づくからです。
相互作用の中に、自分の人生が存在していて、周りの環境がいかにそこに影響しているかに。

利己的な願いは叶いにくく、そうでない願いは叶いやすいのは、相互作用の働きが使えるか使えないかの差です。


また、そして、願いを叶えたことのある人の願いは、さらに叶いやすくなります。
その人は、願いが叶うことに疑いを持たなくなるからです。

つまり、信じる、からです。
信じない時、願いはなんの力も持ちません。
それは単なるファンタジー。


個人の願いを徹底的に叶えた時、そこに残るもの。
そこに残るものが、未来への希望だと、私は感じています。


満たされたところから、平和を祈ろう。
あまり余った平和を、世界に配ろう。


つまり、私の願いは、世界平和、です。
できる、と、この国が教えてくれたもの。
そして、この国の人々の願う力は相当なもの。


そのために、私は、個人の願いが叶うことを、自分の願いを叶えたい人が、増えることを祈ります。

そして伝えたいのは、あなたには、願いを叶える力がある、ということです。