何かを信じる

何かを信じる。

その何かはともかく。
信じるとは、どういうことを指すのか?について考えていた。

大事なことは信じること。

古今東西使い古され、つい、うっかり、私も言ってしまうこのフレーズ。
信じることが、大事なことだということは、いろんな場所で目にしたり、聞いたりすることができる。


だがしかし、信じることがいつもいつもいいことを引き起こすかといえばそうでもない。

古今東西、信じることを発端として、さまざまな争いが生まれてきたし、生まれている。

信じる何かが違う時だけにそれが起きるなら話はわかりやすいが、信じる何かが同じ時にも争いは起きる。


となると、原因は、何かではないと私は思った。
何を信じるかが問題なのではなく、「信じる」そのものに、何かがあると思った。

「信じる」は、非常に歴史が古い。
人は太古の昔から、何かを信じている。

「信じる」は人生の初期、まだ言葉を話す前にすでに人生に存在する。
この人が自分のお母さんだと、赤ちゃんはどうやって信じているのだろう?
人間だけに限らない。
鴨やひよこは、生まれて最初に目にした生き物を親だと信じてついていく。


大人になっても人は信じる。
明日は晴れると信じるような軽いものから、人生における信念まで、それは広範囲に及ぶ。


信じる、とは、一体、どのような状態なのだろう?
それは、何なのだろう?


どうやれば、信じたままで、人は争わずにいられるのだろう?


考えはじめた私は、まさに、信じることが原因で、人が言い争う場面にたまたま遭遇した。

そして、また考えはじめた。
私には、何ができるだろう?


そして、私が持つものが、そこに使えそうな気がした。

私は考え、英語でメールを書いた。
返事はきた。

一緒に考えてくれる人がいる幸せを感じた。
この人を「信じて」よかった、と思った。

そして、私は、このために、これから始まることのために、学び続けてきたというような気分になった。


動詞を探るために、言葉の秘密を探るために、私は、学び続けてきたと思った。
文法ではない、それらが果たしている機能、作用を探るために。

使いこなすツールとして。

誰もに、無償で与えられているツールとして。
現実を変える力を持つツールとして。


信じる、ことを探りはじめた私の目の前に現れたものは「私は言葉の力を信じてる」という事実だった。

そして、M先生が死んでしまった後、探し続けた師が、今、私にはいるということを信じた。