正解は

昨日のクイズの正解。

正解は....わからない。

車でなければ行けないスターバックスに、車を持たない3人が行きたいと望んだ時、それくらいならどのように望もうが、おそらくたいした違いはでない。

誰かに話していたら。
話した相手が車を持っていれば、まず解決だ。

乗せて行ってあげようか?と、まあ、相手が言ってくれるだろう。

知恵ある人なら、まだそのスターバックスに行ったことがない人に、声をかけて「スターバックス行きたくない?」とまるで相手のために提案してるみたいに言うかもしれない。

ちなみに、この方法は、私の親戚の少女がよくやる方法で、ある時、私にもそれをして、彼女は一度、私に小一時間、叱られた。
少女の年齢だと、そのやり方は割とうまく機能する。
そして、少女の願いを叶えてやりたい大人が、彼女の周りにはうようよいる。
しかし、大人の世界はそうではない。
私は、願いが叶わないと不満を抱く大人になって欲しくはなかったからである。
私と少女には年齢差があるから、少女が、何か悩む大人になる頃、相談に乗ったり、手を貸してやれるとも限らない。
叱っておけば印象に残りやすいだろう、もしかしたら、その時、思いだすかもしれない、幸せになって欲しいと思ったからだ。


さて。


1人目は、「自分ひとりでやり遂げる」ことを選択しているけれど、これくらいのことならば、そう?じゃあお願いします、と言えるだろう。
相手に対価を支払えるからだ。
「何かご馳走するわね」で、罪悪感は感じなくていいし、これくらいなら、自分でできない無力感も感じる可能性は低いだろう。
人をそう信頼できなくても、相手が自分をスターバックスに連れていけるくらいは委ねられるだろう。
頭を下げるのが嫌いでも、運転してくれてありがとうくらいは、言うのはそう負担ではないだろう。


そしてなにより、他人が考えた解決方法が、その人にも当てはまる可能性が高い。
自分で解決方法に辿りつく必要がない。
願いを叶える方法は、他人から提供されるもので十分だ。

日常に存在する願いは、願いとすら認定されずに生まれ叶い、消えていく。
多くの人がその人の願いを叶えることに協力していることにも気付きにくい。
日常では、相手の負担が小さいからだ。
また、自分が他人の願いを叶えることに協力していることにも気付きにくい。
たいしたことはしないからだ。


人は無数の願いを抱く。
そして、願いの叶え方は、スターバックスに行きたいと願う時に使う考え方と何一つ変わらない。



願うこと、望むことは、考えるのバリエーションだ。
正確には全てが言語化されていないけれど、〇〇したいと思う時、それは、考えることだ。
思うも、考えるのバリエーションだ。

「考える」は、考える内容の種類によって名前が変わるが、している作業は全て考えるだ。
思考を変える、とよく言うが、それは、考え方を変えると同時に、考える内容を変えることでもある。


そして、話す、は、考えたことの表現だ。


人が願うという考えるをする時、そこには癖がある。

どのように考えるかという癖。
それは、どのように言葉を組み合わせているかとも言える。

どういう種類の言葉を組み合わせているか。


スターバックスに行きたい程度の話なら、人は願いとも思わないだろう。
単なる欲求くらいにしか感じない。
叶わなくても人生に大差ない。

スターバックスでなくても、コーヒーは飲める。



ただ、その人がスターバックスに行きたい時にした思考、つまり、考える言葉の組み合わせは、おそらく、普段、普通に使う組み合わせだ。

願いの小さい大きいで、人は考え方を変えないから、普段使える考え方を、他の何かを考える時にも、同じように使う。

考え方を変えてみる、は、そう簡単ではない。
そして、願いについては、全くうまくいかない考え方も存在しないから、願い方に差があることに、日常の中では気付きにくい。


そして、人生の中に生まれる願いは、スターバックスに行きたいときのように、他人も願う願いではないことがある。
他人には、解決方法がわからないことの方が多い。

そして、他人には解決方法がわからないことの方に、その人の深い願いはあることが多い。

だから、一生懸命、考える。



そういう時、考える言葉の組み合わせの違いが、結果を左右する。

ポジティブに考えたかどうかではなく、ただ、言葉の種類の組み合わせが違うだけで、願いは、叶う確率が変わる。


続く。