願うことば

さて、では願いの中に含まれる言葉の種類に話を。
この分類には、REPROCess(ペニー・トンプキンス&ジェームズ・ローリー)というプロセスモデルを、日常用に噛み砕いて、さらに応用して使う。


スターバックスに行きたい3人の話の出だしは、それぞれ。

1人目。
どこそこにあるスターバックスに行きたいんです。

2人目。
家からちょっと離れているスターバックスに行きたい。

3人目。
スターバックスに行きたい。


この文章は3人共、願いだ。
願いの文章に、願いが入っていることは、非常に非常にひじょ〜に、重要だ。
それが、セッションのように誰かに問いかけられたわけではなく、友人や会社の同僚などと、自ら自主的に話している場合であれば、なおのこと、重要だ。

当たり前のことでしょ?と思うかもしれないが、これは意外とそうでない。

例えば、
「スターバックスになかなか行けないのよね。」
と、行きたいを省略して、暗に含んだ言い方で表現する人は割と多い。

自分は、行きたい、と言っているつもりかもしれないが、体はそうは理解しない。
スターバックスに行けない、と理解する。


話を聞いた相手も、それが親くらいその人の願いを叶えたい人々か、よほど親切な人でなければ、わざわざ、それを、「スターバックスに行きたい」と還元しては理解しない。
下手すれば、ただの愚痴に聞こえる。
愚痴は、聞き流される。
その瞬間、その人は、願いを叶えていくのに必要な協力者をひとり失ったかもしれない。
そうしてそれを繰り返せば、その人の話は適当に聞き流していいと相手は思い、いざ、本気の大事な願いが登場した時に、協力者が見つからないという事態になる。

協力者は、特別な人たちではない。
その人の周りで、その人の話を普段から聞いている人もまた、協力者だ。


愚痴は、その裏に、なんらかの願いを含み、それが満たされないことへの文句の場合が多々ある。
願いを自覚しないでいる限り、願いが叶う確率はいつまでも低い。

その願いが、本当に夢ものがたりで、自覚してもそれは手に入らない場合、それでいいかもしれない。
むしろ、そうしておいた方がいいかもしれない。

けれど、現代日本の現在において、大抵の願いは、願いとその人が認めれば、なんらかそこに近づくことはできる可能性は高い。

奇跡のような場所や時代に、私たちは生きている。
個人が幸せを追求できる時代、そんな時代は、過去に何度も書いてきたけれど、過去にはない。
私が書いている話は、100年前なら通用しない。
もしもあなたが女性なら、もしかしたら、普通の女性が自分の願いを追求できるのは歴史上、はじめての時代かもしれないくらいだ。


というわけで、願い、をちゃんと日々、願いとして表現する癖をつけることは、大切だ。

小さな話でできないことは、大きな話だともっとできない。

大きな話は、スターバックスに行きたい、という願いの時には存在しない別の感情的要素が、そこに加わる可能性が高い。

志高き人でない人が、願いを叶えていくときは、そのケアが必要になる。

私個人の経験でいえば、私が願いを叶える実験の数々の行程で、願いを生む次に時間がかかっているのは、そのケアだ。
(私はそこに自分の人間的成長を求めないので、楽して全部メタファーでケアする)


大きな願いには、願い方以外の要素が関わる。
だから、スターバックスに行きたい程度の可愛らしい願いから練習して、ちゃんと願いを願いとして表現する術を身につけておくことがおすすめだ。

派手な願いを叶えているように見える人たちは、地味な願いをその何倍もの数、人目に触れないところで叶えている。


願いを自主的に話す時、話がスターバックスのときは、どれも大差ない。
ただ、細かくいうと、一番、スターバックス、にたどり着きやすいのは3人目だ。

3人目だけは、スターバックスに説明をつけていない。
3人目だけは、別のスターバックスにも行ける可能性がある。


願いには、どうしても、その場所、その相手、など、細かく内容を絞ったものもあるが、例えばスターバックスに行きたいというような類の願いは、それが叶った時に満たせるものを、別のスターバックスも同じように満たせる可能性が高い。

自分から、自主的に願いを発するときは、できるだけ最初はシンプルにそれを表現した方が満たせるものが増えたり、そこにたどり着く道のりが増えたりする。
 
自分ひとりで願いを完成させずとも、もっといいおまけが加わる可能性を少しだけ残しておくのがポイントだ。


思った以上に、話は続く。