美しいものがたりを紡ぐ

二年ほど前、言葉が出なくなった日が何度かあった。
例えば、コップを見て、コップとわかっているのにコップという言葉が出ない。
思い出せないのではない、出ないのだ。

あれ?と思っていたら、今度は舌がもつれた。

やばいか?と思って病院に行ったら、お医者さんがすぐ検査すると言った。
MRI、血液造影CT、心電図、血液検査、一式。

予約なしで、15分後には検査室にいたから、本当に急ぐ時はすぐできるようだ。

お医者さんは私には検査を急ぐ理由を言わなかったが、裏で看護師さんに指示する声が大きかったので、何を疑っているかは私にもわかった。
脳梗塞かもしれないから、検査室あけて、とお医者さんは言っていた。


結果、お医者さんは言った。
「かなりの確率で、あなたは、普通より健康な脳です。ストレスか脳の使いすぎでしょう。」


言葉が出なくなった時、私は恐怖を感じた。
舌がもつれた時も怖かった。


そして思った。
自由に考えて、自由に言葉で表現できることが、私にとって生きてることで、それができなくなった時が、自分にとっての死だ。

動けない、多分、耐えられる。
考えられない、多分、つらい。


そして最近。
なんとなくだが、私が自由に物を考えられるのは、あと三十年くらいな気がした。
何かに巻き込まれなければ。
それは考えても仕方ない。

人生自体はどれくらい続くかわからないけれど。


それから、自由に考えられる頭で、私は何を考えたいだろう?と考えた。
すぐには答えは出なかった。


ある日、道を歩いていた時、答えはやってきた。

美しいものがたりを紡ぎたいと私は思った。
誰の人生も、ものがたりだ。
本人の人生は、頭の中で作られるものがたりだ。

それなら、私は、美しいものがたりを紡ぎたいなあ、と思った。
調和のとれた平和で美しいものがたり。
ドキドキする冒険ものがたりでなくていい、淡々と紡がれる美しいものがたり。

できれば、そのものがたりが、誰かを幸せにすることができたら尚いいが、それは自分では決められない。


自由に考えられる頭を使うのは、調和のとれた美しいものがたりのためだ、と私は決めた。

そこから二年。
自分が決めることは、何よりも強い。
だから、私は自分の人生を観察した。
何が起きるか?

最初に消えたのは、夫とのけんか。
どうやら、誰かを責めるのは美しくない思考だと判断したようだ(笑)

争い全般から、私は遠ざかろうとした。
そういう気質を感じるところからは、手を引いた。

やがて、一生懸命生きる人たちに、無料でセッションをやりはじめた。
セッションという形をとらなければいいだけのことだと私は気づいた。
あたかも普通におしゃべりするようにやればいい。

やがて、人生に、神さま(というメタファー)を取り入れた。
どうやら好きらしい。

やがて、やがて、と、体は勝手に動き、頭の中は考えることだらけになった。


どうも、美しいと思うものがたくさんあるようだ。

ひとつ、はっきりしたのは、私は人間を美しいと思っていることだった。
人の中へ入っていこうとしている自分がいた。
待っているのではなく、自分から中へ入っていこうとした。

それは、今までの自分の動きとは少し違った。


ひとつ変われば全部変わる。

美しいものがたりを紡ぐというメタファーが、私の人生をどのように動かすのか、私は非常に楽しみだ。