多様性の中を生きる
多様性を受け入れましょう。
人の多様性を認めましょう。
ここ数年、よく耳にしたり、目にしたりしたフレーズ。
なんでもそうだが、最初は、思想から始まる。
やがて、その思想の中を生きる段階がスタートする。
思想はだいたい美しい。
しかし、その思想を現実に落とし込んでいく時、今度は美しいだけではない事態が発生する。
思想の中を生きる時、今度は感情が動くし、体も動く。
思想が内面から外側に飛び出していく時、内面の予想を超える事態が発生する。
よくも悪くも。
そこは、その思想以外の多様な要素が絡み合うからだ。
そのため、その人それぞれに、自分の現実の中でその思想を生きるための、細かな工夫が必要になる。
そして、その工夫については、どこにも書いていないことが多い。
書きようがない。
書けるのは、体験談か、シュミレーションくらいなものだろう。
そして登場するのは、創造性という言葉だ。
しかし、これもまた、なんともあやふやな定義の言葉だから、何をもって創造というか、そのイメージは人によって驚くほど違う。
個人的要素、環境的要素、性格、その思想以外の考え方、さまざまな要素が、現実に思想の中を生きる時には関係してくる。
右へ倣えで、みなが同じ行動はしない。
私の解釈では、正しい多様性なんてものは存在せず、多様性を受け入れて生きることは、自分が不快に感じることも受け入れていくことだ。
頭の中にあった時は、それは素晴らしい世界のように感じられたけれども、それをやってみようとした時、私がまず最初にぶつかったのは、自分が受け入れられる多様性と、受け入れにくい多様性があることだった。
やがて、私は、目を薄めにして見ることを覚えた。
見てみないふりではなく、見るけど、目を見開いては見ない。
それから、少し、鈍感になろうと決めた。
いちいち反応していては、身がもたない。
私は意外に繊細である。
そして、多様であるということは、自分もまたその多様のひとつであるわけだから、空気を読むのを一切やめようと決めた。
私が心で感じることには、私自身が全てイエスを出そうと決めた。
良い人のふりをして、そうね、わかるわとか思わないと決めた。
思えない自分について、何の評価もしないと決めた。
それをするなら、私の多様性を殺すことになる。
今、ここまで。
これまでのところ、割とうまく機能している。
ちなみに、全部、ゲラゲラ笑いながらやっている。
いちいち、眉をしかめたりしていたら、顔のシワが増える。
ほっておいてもシワが増えていくお年頃なので、私がシワに協力する必要はない。
ついでに、それは楽しくない。
受け入れられなくても、面白がることはできる。
面白がれないことは、薄目で見る。
そして、深入りしないように気をつける。
世界の全てに、自分は関与できないし、また、関与する必要もない。
心は世界中を自由に飛び回れても、体はひとつだ。
というわけで、多様性を生きる。
しばらくこれでやってみようと思う。