迷惑

私の両親の教えは対象的だ。
よくぞここまで考えの違う人が一緒に暮らせるものだと、たまに感心する。
2人が真逆に近いことを教えるので、子供時代の私は、時折、混乱した。

大人になる頃には、人の考え方はいろいろだ。人の話はほどほどに聞き、自分の答えは自分で考えよう、と、今日の私のスタイルの基礎ができていた。

自分で考えるしかなかった。仕方ない。
どっちの親が言うことが正しいか?
はっきり言って、わからなかったからだ。


さて。

2人の意見が大きく違ったひとつに、迷惑という概念がある。


母は、繰り返し言った。
人に迷惑をかけないようにしなさい。
迷惑をかけてはいけません。

母にとっては、迷惑は害悪だ。


父は言った。
人に迷惑をかけるとか、かけないとか、そんなことは気にせんでええ。
何を迷惑と感じるかは、人によって違う。
迷惑をかけられる人には、迷惑をかけられて大丈夫なだけの器がある。
いつか、迷惑をかけられる側の人間になったらいい。

父にとって、迷惑は、個人の感じ方だ。



今、考えても、どちらも正解な気がする。
だが、私は、父の意見を採用している。


考えあぐねたあげく、人に迷惑をかけずに生きていくことは、現実的に不可能だと思ったからだ。
不可能なことをやろうとすれば、いつでもできない自分を感じ続けるしかなくなる。
私は、そんなマゾヒスティックなことは、自分には向いてないと思った。

なぜならば、私は、人の助けを、おそらくは、人よりたくさん必要としたからだ。今も。
私はできないことと、できることの落差が激しい。


私は父の意見に、母の別の教えをプラスし、自らの考えとした。

感謝しなさい。
人には感謝しなさい。
ありがとうと言いなさい。


私は、自分が誰かに迷惑をかけていると考えるのはやめて、誰かが自分のために何かしてくれたら、助けくれてありがとうと考えることにした。

自分も、誰か手を貸した方がよさげな人を見かけて、それが自分にできることなら、手助けすることにした。

お互いさまだ。


私は、迷惑のかわりに、お互いさま、そして、助けてくれてありがとうを導入した。
私は、自分が、人から謝られても嬉しくないからだ。
何かを手助けして、もしも相手が誤ってきたら、相手に申し訳ないと感じさせた自分に落ち込む。
やり方がまずかったのか、反省する。

日本の慣習は理解していても。



それでも、私にも、時折、ほんとに迷惑なことはある。
エレベーターの中で、夫がオナラをするとか。

密室のオナラは、殺意に近いものを感じる。
迷惑と感じる時の私は怖い。

だから、なるべく迷惑と感じないようにしている。


迷惑なものは、オナラ、ドリアン。
とうも私にとっては、臭い匂いが、迷惑なようだ。

それから、自分の目の前で繰り広げられる他者のけんか。
不愉快きわまりなくて迷惑。
なんの権利があって、私の空間を荒らすか知りたい。

しかし、これらは防ぐのは無理。
オナラの匂いは、自然現象。
けんかは、自分の問題ではないし、けんかする人には、その時けんかする理由がある。
他者の人生は、自分の思いどおりにならない。


私だって、たくさん迷惑をかけている。


死ぬ時には、かけた迷惑と、かけられた迷惑は、多分トントンというところだろうと思うので、ひとつひとつ、あまり気にしないことにしている。

人生の前半、たいがい迷惑をかけているので、あとは、人を手助けするのをせっせとしないと、トントンには辿りつかない恐れはある(笑)