6:標準語。相手の世界観を尊重する。

では、標準語は、相手の世界観を尊重しない言葉なのかというと、そうではなく、その発生経緯を見ていると、尊重しようとしたからこそ生まれた言葉のように見えた。

ここで日本が多様性に柔軟だと私が思ったのは、標準語を話せと強要されている場所はなく、また、国の全てが標準語を話しだしたわけでもなく、方言が残ったことだ。

学校や会社と言った公の場でも、個々の会話には方言が残っていることがほとんどだろう。
学校の中では大阪弁はいけません!ともしも先生が言ったなら、「なんでやねん!」と、子供たちはつっこむだろうから、めんどくさいのかもしれないが。

国も公共の場で使う言葉は標準語と強く押し付けはしなかった。
それは暗黙のルールで、みな、標準語を話すようにはなっているけれど、完璧に徹底されている気はしない。

今の標準語が、主に日本が民主化された後に使われ始めたものだからということもあるのかもしれない。

東京に行っても、なまり、は聴こえる。
そもそも東京で生まれ育った人がどれくらいいるのか謎だし、だからこそ、標準語が必要になったのだし。
東京に住んでいた時期に気がついたけれど、東京生まれ、東京育ちの人も、普段の会話は、東京っぽくなまっている。
横浜はまた違うし、北関東も違うし。
世代があがれば、もっとなまっている。
それを、なまりというと怒られるかもしれないけれど。
まあ、ようするに、標準語ではない響きが街には溢れていた。


何が言いたいのかというと、この日本独自の言葉の存在は、集団の中で、他者を傷つけないように最大限に配慮された言葉で、心と繋がりやすいように配慮して作られた言葉ではないと思ったということだ。

相手を丁寧に傷つけないように、共通理解をもち、生まれ育ちに関係なく、全体の繋がりを感じやすいように、みなが同じ言葉を使う。
標準語。

最大限に相手を尊重してある気がする。



関西弁、大阪弁と言っても、今は、そんなにむちゃくちゃきつくはない。
テレビや漫才の中の大阪弁は、デフォルメされている。
親世代が話す大阪弁と、私達の世代が話す大阪弁はまた違うし、同じ関西の中でも、地域によって言葉は違う。

ただ、リズムやイントネーションやリズムはある程度共通している。
そして、関西は東京に対する憧れが全体的に低いので、一生をその中だけで終える人が割といる。
ラテンな雰囲気が苦手な人ももちろんおり、そういう人は、精神状態がヘルシーであれば、若いうちにラテンではない地域に動いている。


そして。
私が、見落としていたこの地域における最大の世界観は、標準語の響きが好きではない人が少なくないと言うことだった。
標準語の響きは冷たい、よそよそしい。
そういう印象を持つ人が決して少なくないということだった。


私は自分がそうではなく、自分はいろんな場所を動いてきたので、他人が話す言葉のイントネーションが自分に与える印象が薄くて、標準語についても、特定の印象をもたない。

だから、英語と日本語だと思いこんだ。


続く。