使命という鎖

人生には意味などない。
自分がつける以上の意味はどこにもない。
自分が作る以上の意味はない。

そもそも無いものを探せば、泥沼にはまる。
人生の意味が欲しいなら、意味を作れ。
探すな、作れ。


いつだったか、もう何年も前だけれど、ものがたりを書いていて、その中の登場人物の銀髪のおじいさんが、そう私に語りかけた。
おじいさんは、銀色のマントを羽織り、銀色の杖を持っていた。


人生に意味などない。


私は、ほう、と納得した。
まるで般若心経のような、聖書の伝道者の書のような言葉だね、と。

そこで、よくできた人ならば、じゃあ意味を作ろう!となったのだろうが、私はそうはならなかった。

私は、ただただ解放を感じた。
心が自由に解き放たれていくのを感じた。

私の人生には意味がない、やるべきことは何もない、それなら自由にやりゃあいい、と、私は思った。

多くの人が、その魅力に魅せられる人生の意味や使命は、私には、ただの足かせにしか思えなかったのだと、私はその時気づいた。

決まった何かのために生きるなどごめんである、と、私は感じた。

そうでなくても、人生の中で、役割はある。

役割、使命、運命、生きる意味、いったいいくつ決まったものに自分を合わせていかなければいけないのか?と、私は思っていた。

アドリブで、その場その場でやりゃあいいじゃないかと私は思った。
決まってるなんて、めんどくさい。
不自由だ。

多分、これは、少数派。


人生の意味や使命を持つことは、多くの場合、それを持つ人に生きる力を与える。

ただ、多くの人に効果があるからといって、誰にでも効果があるわけではない。

そして、同時に、自分の人生にうまくそれらを見つけられなかった時、人は深い絶望や脱力を感じることがある。

使命感や人生の意味は、諸刃の刃だ。
気をつけて扱う必要がある。
その根っこにあるものは、人によって違う。


ともかく、私は、解放され、体は軽くなった。
そして、不思議なことに、私の場合は、人生に意味などないと思い始めてからの方が、他人から見れば深い意味がありそうなことをやりはじめたような気がする。

私に近い人はだいたいが知っているが、私のすることには深い意味などまずない。
善行っぽいことをしているように見えたら、それは大抵の場合、楽しそうだとか面白そうだとかいう理由だ。
善、には好奇心がわかないので、私が良いことをしようと思うことは、まずない。


私に邪魔だったのは、使命や人生の意味という概念だったのだと、私は気づいた。
私にとっては、その古典的な人生の捉え方の概念は、鎖としての効果しかなかったようだ。(しつこいけれど、人によっては、この概念は、スーパーに効果があることがあるので、概念自体どうこうという話ではない。誰にでも効果がある思想がないという話)


あえていうなら、私の使命は日々変わり、私の人生の意味も日々変わる。

そして、意味などなくとも、人の人生は尊い。
これは自分の人生についてではなく、他人の人生について思う。

今日、生きている。

それ以上に重要な意味など、私の人生にはなく、その軽やかさに、私は果てしなく自由を感じる。