広がる選択肢と果報は寝て待て。

私は、何かを決めるのに迷うことが、そもそも少ない。
何かが浮かんだら、迷う前に浮かんだことをまずやってみて、失敗してから次を考える。


小さい頃からそうだったらしい。
私を長く知る母は夫に、「この子は、小さな頃から、何か思いつくと走りだします。まだこの子が小さくて足元がおぼつかない頃から、私は、だ〜っと走るこの子の後ろを追いかけていました。また足が速いの。そして転んでは泣いて、泣きながら立ち上がって、また走るんです。私は、転んでから考えるのではなく、走る前に考えなさいとよく注意したんですけど、この子は、大丈夫、大丈夫と言って聞きませんでした。本当によく泣いていました。」と説明していた。


正直な話、転ぶのがなぜ怖いのか、今でもよくわからない。
大人になり、転んでもひとりで立ち上がる必要すらないと気づいた後は、さらに怖くなくなった。
だれかが、必ず、助けてくれる。
私だって、誰かが転べば助ける。
お互いさまだ。
人はひとりで生きていない。


ちなみに、思ったとおりにならず、そこに協力者がいない判断した時も、私は、走り去る傾向がある。
見切りをつけるのは早い。
これも性格で、まだ一歳の頃、スーパーのお菓子売り場でお菓子を買ってもらえないと、スーパーから走り去っていたらしい。

「他の子供は、寝転がって泣くか、親にだだをこねるかしているのに、あなただけは、どこに行くというのか、スーパーから走り去っていくから、私は、買い物かごを置いて、あなたをしょっちゅう追いかけなくちゃいけなかった。商店街をあなたを追いかけてよく走った。」と母は言っていた。

ちなみに、私は、10ヵ月から歩き出し、1歳半ばにはそこそこ走れたらしい。
そして、ベビーカーは断固拒否をした模様。
(妹が生まれた後、2人乗りの乳母車には機嫌良く2人で乗っていたらしい。その乳母車は、なんとなく覚えている。)


「ともかく、走るあなたをよく追いかけた。他の子供は、母親から離れようとはしないのに、あなたは、自分が行きたい場所に行きたがった。どこへ?とよく思ったのよ。」


三つ子の魂、なんとやら。

というわけで、私は、目的地がはっきりしている時、そこに至る手段は、ひとつずつ浮かぶことが多いので、あまり迷わない。

私が困るのは手段ではなく、目的地がわからない時だ。
私の体は、目的がなければ動けない。


ところが。

非常に珍しいことが起きた。

目的地がはっきりしているのに、私は迷っている。

ある目的地までに、この道のりはどうですか?と、いくつかの道が現れたからだ。

それぞれの道に特徴がある。
どの特徴も魅惑的だ。
そして、どの道も、それぞれにしんどいポイントはある。
どっちもめんどくさいこと山積みに見える。

しんどくなさそうな道はない。
楽なだけに見える道はない。
そんな道は、おとぎ話のエンディングに登場する道にしかない。

そしてどの道も、多分、楽しい。
楽しいかどうかは、自分次第だから、必ず、楽しくできる。

この場合、この道には、金銭支出が発生するが、かかる費用は似たようなものだ。

どちらが早いか考えてみたが、目的地にたどり着くまでの時間も、おそらくどちらを選んでも同じようなものだろう。

やることも同じだ。
どちらにしても、私は、相当勉強する必要がある。
学ぶ内容が変わるだけだ。

それぞれの道は、道のりで、手に入るリソースがやや違う。
どれも魅力的だ。


と書いていたら、頭の中が動いた。

迷うということは、どちらも必要な可能性があると気がついた。
当初、予定していた期間内で、いくつかある道のりを全部通ることができる方法があるはずだ、それを見つけろと、何かがささやいた。

それが可能なら、予定した同じ時期に、今、考えているよりさらにいい目的地に辿りつける。
同じ時期に、手にしているリソースが、多い。

リソースは、多ければ多いほどいい。


そして、迷っていたら、周りでいろんなことが起きた。

そして、私の頭の中がまた動いた。

そして、感じた。
全ての条件が出そろってないな。
これはまだ、選択を確定する時期にない。

あと数ヶ月だけ、どういう道のりを取るか、旅程を決める決定を伸ばそう。

いい航空チケットが、バーゲン的に出てくるかもしれない。
なんとなく。


そして、私は思った。
過去は自分で走るしかなかったから、私は先を急いだけれど、今、大人の自分は、移動手段は走るだけではないと知っている。

目的地に決めた期限までに到着するなら、船でも飛行機でも、気球でも、歩いてでも、走ってでも、なんでもいい。
人生で望むとドツボにはまるのは、どこでもドアだけだ。
時空を歪めることは、体の中の思いとしては可能だが、目的地(希望)が現実の何かの場合は、どこでもドアを望むこと自体が障害になる。絶対に無理だからだ。少なくとも、私の生きる時代には。未来は知らない。


小さな私にできなくて、私にできることは、待つこと。様子を見ること。


目的地に辿りつくのに、必要なものは、道(手段、方法)だけじゃない。
決めるタイミング(時間)も、大きな要素だ。


そして、私は迷うのはやめて、しばらく選択を放置しようと決めたのだった。
まだ時間がある。

寝かせよう。
果報は寝て待て。