痛みか望みか
同じことが起きたとき。
感じる感情も同じとき。
抱える痛みから始めるか。
抱える望みから始めるか。
思考を。
選択、選択、というが、気づかれないうちに行われている最初の選択は、その時点に、すでにある。
私はポジティブで楽観的な人には詳しい。
自身がそうだからだ。
よく誤解があるようだが、耐えがたい痛みの感情を、ポジティブで楽観的な人は感じないわけではない。
混同されていることが多々あるが、それは感受性の話で、ポジティブ、ネガティブ、楽観、悲観とは別の話だ。
感受性が強い楽観的な人は、痛みの感情は人一倍感じる。
私は、たくさんの心に痛みを抱えた人に会ってきた。
社会生活を送れる程度に、心に痛みを抱えた人たちが、心の痛みから解放される瞬間も、見てきた。
それは、テクニックの力ではなかった。
本人が振り切ると決めた時、過去ではなく未来を眺めると決めた時に、起きていた。
はじめは、心の痛みは抱えたままで。
すると、その痛みは、未来の邪魔になることが多いので、望みを叶えるために、心に癒しが起きることが多く、本当に、痛みが癒されるようだった。
未来のために、過去が変わっていくのを、私は、何度も見た。
自身の過去も含めて。
そして、そのあと、痛みに注目されていた時間、置き去りにされていた望みが、見てもらえなかった望みが、人生に現れてくるのも見た。
痛みと望みは、同時に存在する。
痛みのために生きるのか?
望みのために生きるのか?
人はなんのために生きるのか?という根本的な問いかけを、心の傷は、その人に問いかけているような気がすることが、たまにある。
強い、弱い、ではなく、選択を、問いかけているような気がすることがある。