お箸が折れて、お皿が割れる
お箸が折れた。
この事象に、意味はあるかないか?
意味などない。
起きた出来事は、お箸になんらかの力が加わり、お箸が折れただけ。
しかしながら、私の実家では、お箸が折れることには意味があった。
「まあ、よかった!誰かの骨の代わりにお箸が折れてくれたわ。よかったわねえ」と、母はお箸が折れる度に嬉しそうに言った。
お皿が割れた時も同じだった。
「まあ、これで不幸がひとつ減ったわ。お皿に感謝しなくちゃね!」と母は言った。
事象には意味などないと、私は思っている。
自分が生み出す以上の意味はない。
しかし、この生み出す意味は、なかなかにパワフルで意味を持ち、人生に影響を与えている気がする。
起きる出来事、起きる事象、目にすること、耳に入ること。
それらは、いかようにも意味づけできる。
そして、その意味づけは、実にバラエティや個性に富んでいる。
今年、全世界に、同じ事象が現れた。
現在も絶賛活躍中の事象だ。
それが起きたことに意味などない。
私の信仰では、それもまた神の計画の一部ということになるのだろうが、私には、意味がないように思える。
神さまは、病気を計画するようなアホではあるまい。
それは、ただ、起きたのだと感じている。
ヒューマンエラーか、または、自然の中で。
いわば、お箸が折れ、皿が割れたようなことが。
自分の人生の中で今や今年がどんな意味を持つかは、全員同じではない。
前向きに感じている人も、悲観的な人もいる。
だからこそ、人は協力し、助け合うことができる。
いろんな感じ方をするから、協力し、助け合える。
前向きが正解なことも、悲観的だったから慎重にしたことが正解なこともある。
どのように感じるか、そのことに1人1人違いがあること、それこそが豊かさのかけらなのだと思う。
ただし。
自分が、そう感じることが嫌な意味があれば、それは変えたらいいと思う。
だって、そもそも意味などないのだから。
意味は生み出されている。
自分が生み出している、または、誰かが生み出した意味を採用しているということに気づいていることは、割に大きい違いを生むような気がする。
さて、私はどう今を意味づけしているかというと「虹の始まり」だ。
虹の始まりは、いつでもぐちゃぐちゃ。
今は、虹が伸び始めるまでの時間だ。
希望を感じさせる事象、特に世界中の科学者や政治家、ビジネス界が、ひとつの目的、人類を救うという目的のために力を合わせると、普段10年かかることが1年足らずでできてしまいそうなのも見えた。
知恵とパワー(権力)と財(お金)が力を合わせた時に起きること。
他についてもやる気になり、協力し合えば、ヘルシーに競えばできるんじゃない?と、私は思った。
それは、大いなる希望だ。
自分個人については、私は早々に(おそらく)流行病に感染した。
その時期は、私に幸せな温もりを心ゆくまで味合わせ、そして、その時期にはじめたことが仕事を生み出しつつある。
災い転じて福となす感が強い。
それから、自分の人生の残り時間は、まだ残っているということの確認。
ここまでの人生にやり残しはないという確認もでき、私の目は、真っ直ぐに未来を眺めはじめた。
あれは、いい出来事だった。
しんどかったけど。
体のしんどさは忘れてしまえる。
体感は、その時だけ存在するもので、自分が頭に記憶させようとしなければ、一時的なものであれば、過去の体のしんどさは消せる。
体感としては残らない。
私が残す意味は、基本的にはいいことだけ。
過去はどうせ幻だ。
幻の意味は、自分が生み出す。
起きた事象、事実は変わらない。
けれど、その意味は、自由自在に変えられる。