私の娘

 時たま、私は自分の母性にびびる時がある。

それは、主に、発展途上国の小さな女の子達が受けている不平等な扱いが目に留まる時に起きる。


この子は、私の娘として生まれてきたはずの子供だったかもしれない、と、根拠なく私は思う。

ひどい扱いを受けているのは、私の娘だくらいに感じる。

そして、どうにもこうにも、少額ではあるが寄付せずにはいられない気分になる。


そしてまた、定期的に目に留まるのだ。

私のアンテナは、世界が抱える問題についてのパートは、貧困と教育の機会の不平等に伸びているらしい。


この思いこみは、クリスチャンになった後、さらにひどくなった。


私の娘と、私は本気で感じるようになった。

不思議なもんで、息子とは思わない。

息子は生まれなかったのかもしれないね、私からは。


娘がお腹いっぱいに食べられないこと、娘が教育を受けられないこと、その二つが、私には我慢ならない。



今年、春の時点で、一部の発展途上国では、女の子の赤ちゃんがカウントできただけで一億人、生まれる直前か生まれてすぐに姿を消したとニュースで見た。

流行病のせいで貧困が酷かったことが理由と見られると記事には書いてあった。


女の子だっただけで。


それを読んで、私の娘にいったい何をしてくれると、私は本気で腹が立った。



そしてそれから、私、とは、いったいなんだろう?と思った。


私に娘はいない。


けれど、私の娘、は、世界中にいる。


不思議なことだ。