だらだらと。
ここ二、三ヶ月、カード作りの相方さんと私は、ものすごくしょっちゅう話をしている。
私達の会話は音声のみだ。
カード作りの会話には、顔の情報は邪魔だからだ。
時間は、どちらかが何か浮かんだ時なので、朝から話していることもあれば、真夜中に話していることもある。
LINEは、一日中飛び交う。
二人にとって、初めからずっと、カード作りは遊びなので、会話にはどうでもいい話がかなりの分量混じる。
しかし、どうでもいい話はだいたい何か、カードと関係している。
私たちは、カードに使う単語を自分達では選べない。
そして、その単語が何を伝えたいかも最初は知らない。
作りながら、ああ、これはこうだ、いや、やっぱりこうだと、二人で確認しながら話を進める。
私たちは二人とも、デザインができる。
なんなら、相方さんの方が、元々はデザインについてはそれを仕事にしていた人だ。
もうひとり、別の作っているものがあり、その相方さんも、過去デザインを仕事にしていた人だった。
私は、デザインをきちんと勉強したことがない。
独学で、触りながら、やりたいことをどうやればできるかを覚えていってる。
おそらくは、技術は、二人に劣る。
けれど、面白いのは、技術的な部分は、その二人はそれぞれ助けてくれるが、デザインそのものは、彼女たちは私にさせる。
おそらくは、私は、デザインの常識を持たないから自由にやるからではないかと思っている。
カード作りの相方さんからは、頼むから、勉強しないでくれと言われている。
感じるままの色でいいのだからと。
相方さんは、大きいメーカーで商業デザインに関わっていた人だ。
あこがれのミッフィーを生み出したディック・ブルーナさんとも仕事をささていたことがある。
その人が、褒め続けてくれたことで、私はあんまり自信はなかったけれど、今は、自分はグラフィックデザイナーだと、ちゃんと言えるようになった。
10年くらいかかったけど。
さて。
私たちは、作っている時期の間に、自分達がそれぞれの人生で体験することも絡めながら、カードの意味を理解する。
毎回。
そして、昨日の夜、来年最初、早かったら年内に出すカードの図柄が揃った。
そして、今朝、私は決めた。
カードにまつわる物語をシェアしよう。
ブログを作ろう。
一枚一枚のカードには、メッセージ以外にものがたりがある。
例えば、たった一枚のカードができるまでに四年間、時間を必要としたものがある。
私は、二年前から、来年出すカードについては考えていたと思っていたが、昨日、四年前に、すでにそのカードのたたきが存在していたのを、パソコンの中で発見した。
最近、作った一枚とそれは、色が同じだった。
デザインも似ていた。
ある部分を除いて。
その二枚を比べた私と相方さんは、「四年」とつぶやいた。
一枚を生み出すのに四年。
デザインの違いが、メッセージを持っていた。
それは、ここ最近、時々、ここに書いているパラレルワールドの統合とも関係するし、また、私が今、別の相方さんと作っている別のものとも関係する。
私は二人と、内容は違う、同じ意味を持つ作業をしている。
共通しているのは、「使うこと」だ。
三人に共通している要素は、人の相談や話を聞き続けてきたことだ。
そして、三人とも、同じことに気がついている。
意識だけでは、人生は変わらない。
意識を現実に引っ張りこむことができなければ、何も変わらない。
そして、そこがうまくいかないことが、多々あること。
そして、どうすりゃそこをサポートできるのかを、模索し続けてきたこと。
主に、ふわふわした意識を持つ人達に。
そして今朝、私は決めた。
カードのものがたりをシェアしよう。
ま、ようするに、それを販売促進活動、または宣伝広報、または営業活動と、世の中では呼ぶ。
ものがたりの別名は、世界に溢れかえっている。
そして、それから、私は気づいた。
ようやく、私は一人占めをやめようとしてるということ。
さあ、一緒に世界を遊ぼうよと、遊び道具を本気で配るつもりになってきていること。
これはひとえに、来年、箱をリニューアルするつもりだからだろう。
箱ひとつの影響は大きい。
ただ、今の箱も、立派に役割は果たしてくれている。
十分に。
けれどそれは、fine(問題ない、まあまあ)やenough(十分)であって、more than enough(十分以上)ではない。
私は、more than enoughが欲しい。
too much(多すぎ、やりすぎ、適量以上)にならないように気をつけて。
来年は、全てにおいて、more than enoughを自分に要求してみようと、私は決めた。
そこではじめて、きっと私は足るを知る。
人に分けられるくらい余らせていることが、私にとっての適量だ。
書いて、自分にとっての適量を理解したところで、だらだらした日記は終わり。
ブログを作ろう。