許す
昨日夜、お笑い第七世代でM1グランプリでR1グランプリのチャンピオンの芸人さんと、大晦日に語り明かす夢を見た。
私は、その芸人さんに、あなたは本当に上手にパラレルワールドに住むいくつもの自分の意識を統合していますねと、言っていた。
それと関係あるのかないのか、朝、起きてすぐ、最近遅く、あまりにも遅く来た反抗期をしている友人のことを思い出した。
若い時にやっておくべきだったことを、若い時は、家庭に諸事情あり、親はすでに自分で大変だったため、親に心配かけたくないあまり、いい子で過ごすしかなかった彼女は、今頃、それをして、今や何の心配もなく過ごせるようになった親を心配させている。
この時期を待っていたかのように。
友人の親は気の毒ではあるが、まあ、他人が聞く分には、話は面白く、私は毎回大笑いで話を聞いており、いつか酷い目にあう日には、「じごうじとく〜!」と笑いながら叫んであげようと宣言している。
友人は「死にそうな気分でひいひい言ってるかもよ」と言い、私は、「死にそうな気分になるだけで、死にはせん。だから、大笑いする準備をしておく」と言った。
かけてもいいが、この友人は、そのうち、一度は、酷い目に合う。
すでにあってもいるが、きっとまた合う。
しかしまあ、それは、この友人らしいと言えば友人らしいので、友人が好きにやるのを私は大笑いしながら聞いている。
その人らしけりゃ、なんでもいい。
傷ついても、死にはせん。
ズタボロになっても、傷は癒える。
ほら、言わんこっちゃない、と、言う準備だけはしておく。
まあ、私の周りは、私以外もそんな感じだ。
みなが絶対に失敗すると思った私の最初の結婚を、誰も止めなかったように。
失敗すりゃいいのだ。
やらずに失敗しないより、やって失敗する方を選ぶ人が多いのかもしれない。
やってみないことには、それが成功するかどうかは、誰にもわからない。
そして、やらなかったことは永久に成功もしない。
やらなかったのだから。
やっとけばよかったなは、幻だ。
やれば必ず上手くいった?
そんなわけはない。
やってみたから、成功か失敗かがわかったのであって、やっとけばよかったは、もう可能性すら持たない。
それが成功か失敗かわかるのは、やってみた時だ。
成功と失敗は、常に半々の確率だ。
だから、もしやっとけばよかったがあるならば、今、やってみるしかないのだ。
若いうちに、と言う人が気づいていないことが2つある。
若いうちにも、勇気がない以外にもやるリスクはあったこと、そして、今の自分は、残りの人生の中で一番若い自分だということ。
70代の人は40代の人に言う。
まだまだ若いわね。
90代の人は70代の人に言う。
まだまだ若いわね。
さて、この友人がやっていることは、おそらく、10代から30代前半までにやっておくべきだったこと。
しかし、これは、いつやっても、友人は酷い目にあっただろう。
泣いたり笑ったりしながら酷い目にあうことが、この場合は成功である。
「ほろ苦く甘い思い出」を作るためには、それは必要なプロセスである。
その思い出は、「親の諸事情で反抗期ができなかった思い出」を帳消しにし癒す。
そして、持てたはずなのに持たなかった思い出を、「もしも」で存在した空想を、自分の現実の思い出にできる。
持てたはずで、持たない思い出を作っていくことは、パラレルワールドの意識の統合には重要な要素だ。
そして、それは、許すこととも繋がっている。
やらなかった自分を許すこと。
やらせてくれなかった誰かを許すこと。
自分がやりさえすれば、自分が思い出を持ちさえすれば、許せることは、山のようにある。
パラレルワールドの意識の統合は。また、許し、でもある。