動くこと。生きることがもたらす気づきと英語。

 

人が自分について知る、気づく時、その内容はいろいろあるけれど、自身について、ああ気づいてよかったなという気づきは、だいたい、現実が絡む。


例えば、この気づきは大きかった。

「普通じゃないけど、私は、人生の中に国を二つから三つ、必要とします。」


それから、これも大きかった。

「私は人よりたくさん睡眠を必要とします。」


これも大きかった。

「ひとつのことに集中しようとするより、二つ同時にする方が自分は集中できる。」

例えば、パソコンで何かする時は、音楽をかけるとかラジオ聞くとか。



私はこう感じるんだなという気づきよりも、それらは、人生に豊かさをもたらした。

満足度をあげた。

もちろん、感情も含めて。


もちろん、私はこう感じるんだなとか、自分にはこういう特徴があるなという気づきも役には立った。

けれど、それは、気づいたその後、一工夫が必要だった。


「ならば、このようにしよう」と行動に結びつける工夫だ。

気づいただけでは、人生は変わらない。

気づきは、はじまりに過ぎない。


私は、その工夫がブログのネタとしてはいいが、使うにはめんどくさいと思いはじめ、そうしたら、私の気づきは、だんだんといきなり、行動を教えてくれるようになった。


こうしてみれば?と、自分が自分に。

最初だけ、意識的な気づきがやってきて、あとは、行動。


今、私は、主に、英語について気づく。


しばらく前に、「私は、日本語と同じだけの表現力が欲しい」と気づいた後、私の英語の勉強の仕方は変わった。


私は、ビジネス英語の力を必要とするのでもなく、論文を書きたいわけでもなく、日常の中の表現がたくさん必要だとわかったからだ。

しかも、覚えりゃいいというのではない。

「私の言葉」を自由に、が、必要なのだとわかったからだ。


私は、正しい英語を学ぼうとするのをやめた。

単語や文法については勉強するが、表現には、正しい正しくないはない。


そしてそれから、勉強することそのものが、「二つか三つの国を必要とします」という自分のニーズを叶えていることに気がついた。

今年、海外に自由にいけない状況が生まれ、それで気がついた。


その気づきは、私の英語学習に遊びをもたらした。

今は、インターネットを使えば、いくらでも遊べる。

私は、リスニングはできるので(毎日英語のドラマを数年見続けていれば、誰でもできるようになると思う。アメリカの西海岸が舞台のものは、喋るスピードがゆっくりだから、それからはじめて、今はワシントンD.C.やニューヨークが舞台のものを探して見てる。東海岸は会話のスピードが速い。)、

ともかく語彙を増やさないといけないと理解し、なんでもいいから、英語の日常に触れることだと気がついた。


私は、文法以外の英語のテキストを手放した。

文法は今やり直している。

アプリで。

British Councilのアプリと、アメリカの子供用国語のアプリ。


私の英語には、テストは絡まないことに気がついたから。


私の日常は、通販サイトやものがたりや、ニュースや、ゲーム。音楽。ドラマ。旅情報。

どこにいようと私の人生を構成するもの、まずは、そこからだと理解した。


すると、インターネットが楽しくなった。

昨日は、いろんな国のAmazonに行った。

一番楽しかったのは、インドのAmazonだった。(インドのAmazon は英語。)

これはなんだろう?という食べ物がいっぱいあった。



気づきは、じっとしていて訪れることもあるが、それは、内省の範囲を出ない。

動いたり、生きたりして、気づくこともまた多い。


目にすること、耳にすること、触れること。

動くこと。生きること。