私の世界。

今朝、自分はつくづく、計画性がないのが好きなんだなあ、起きることに、瞬間瞬間、反応して判断するのが好きなんだなあと思った。


私は今、武者修行中だ。
20年のロスがなければ、また、私が精神的にヘルシーな家庭で育っていたならおそらくは、今、私がすでにできたはずのことを、毎日毎日、練習している。

その中に、毎日、スマホで動くものを撮影する時間が含まれている。

私は耳より目がいいことに、私はようやく気がついたのだ。
耳も悪くないから、気がつかなかった。
耳と目のバランスも多分悪くない。
私の中で、一番上手なのは、バランスだろうと、私はようやく気がついたのだ。


こういう時の私は、真面目さを発揮する。
自分が面白いと感じることになら、私は真面目だ。
朝も早くから起き、太陽を観察している。
日差しが欲しい。


そんなわけで、今朝も私は失われた20年を追加するべく、スマホを持って庭にいた。

ちなみに、失われなかった20年もあるので、つまり、結局はその20年は、失われなかった場合よりも濃厚なリソースを私にもたらすことになる。
大変、お得感のある20年だ。

失われなかったならば、私に、今、おそらく心理学の知識はない。

私が、技術をある程度習得すればね。
ある程度でいい。
なぜならば、本格的なものが欲しくなれば、カメラマンを雇えばいいだけだからだ。

何も、全部、自分でやる必要はない。
欲しいものができあがれば、誰が作ろうが同じだ。

自分がやることへのこだわりを、私は捨てた。
流行り病の間に。

私は、欲しいものが手に入ることと、そのプロセスがポカポカしていること、そして、そこに甘えがないことにこだわることに決めたのだ。


こんなことには正解はない。
自分がいいように解釈すればいいのである。
大事なことは、その解釈が何をもたらすか、何を起こすかである。


さて、朝、風が吹いた。

それで、私は撮るものを変えた。
予定変更だ。

風が関係するものを撮ることにした。
それで、庭に寝転んで目線を変えたり、プランターの上に立ってみたりした。
私がおじさんだったなら、不審者に見えただろう。
女性でよかった。
女性なら、ただの変な人にしか見えない。
おじさんは、なにかと受難の時代である。


頭の中のBGMがそこまでの曲と切り替わり、チャイコフスキーのくるみ割り人形の金平糖の精の踊りが流れ始めた。

風に舞う、たくさんの金平糖の精。
私は、頭の中の音楽を踊るものを探した。


そして、思い出した。
子供時代、毎日、こうやって遊んでいたこと。

音楽に世界を合わせて遊ぶ遊び。
そこにはお話しもちゃんとあった。
そして、学校に遅刻する。
気になるものがあると、見ていたから。


おかえり。
私の世界。