感謝

ああ、もう、今まで通り、セッションを続ける気がなくなったんだなと、しばらく感じている。
仕事としてセッションそのものだけを売るなら、書いちゃいけない本音の嵐が、最近のブログだ。


めんどくさい、苦手、嫌い。
書いちゃいけません(笑)
ポジティブなことだけ書かなくちゃ!

でも書きたい方が勝っているので、ああ、お金をもらってやる気がねえな、こりゃと知った次第。


今日、書きたいと思ったのは、そりゃ、感謝が足りませんという話。
別の書き方では書いたことがある。
美しくまとめた記憶がある。

セッションしないなら、美しい話にまとめる必要はない。
本音でいける。


なんでできないかね、感謝。
そう感じることが、割とある。

人生がうまくいってない人、不満が多い人の口からは、感謝の言葉が少なく、感謝を表す行動が少ない。

むっちゃシンプル。


これはセッションだと言えない。
でも、思う。

そりゃ、周りへの感謝が足りないだけだと。
傾向としては、恵まれていると気づけない、恵まれた人に多い。
恵まれているから悩める悩みは、実に多い。
日本の半分以上は、恵まれている部類に入るはずだ。

日本しか見てない人は、より気づきにくいから、もしも、私に子供がいたら、心が柔らかい間に、どこかに留学させたか、旅行で連れていったのではないかと思う。
道端にストリートチルドレンやホームレスが溢れている国へ。
それは、発展途上国でなくていい。
見るのに行くのは、先進国と呼ばれる国で事足りる。


恵まれていることを自覚して、感謝しながら悩むのと、この世の不幸を一身に背負って悩むのでは、同じ悩みを抱えても、生まれるプロセスと結果が違う。

起点の状態が違うからだ。


他人のために感謝するのではない。
自分のために感謝は必要なのだ。

幸せを感じ、幸せを生み出すために。
もっと自己中でいい。
誰かが何かしてくれるまで、感謝するのを待たなくていい。

感謝は、いつでも自由にしていい。


私自身は、半ば無理やり探す。
感謝できることを。
腹が立てば立つほど、探す。

悩む時は、まあ、あんまりないけど、悩む時は、悩めることに感謝する。

ほんとうに追い詰められた人は悩まない。
そんな時間の余裕はないからだ。

だから、自分に悩む余裕があること、時間があることにまず感謝する。

話はそれからだ。


感謝になると、それは、セッションの話じゃないのよね。
毎日、毎日の話だから。

自分に感謝してもらっても何も変わらないのよね、というのが、私が抱え続けたジレンマだ。

それは、その人の現実の日常の中にいる人たちに向けられなければ、意味を持たないのよね。


これは、神さまにしか感謝せん人にも同じことを感じる。
神さまは、超絶スーパーセラピスト、カウンセラー、コーチだが、日常を構成はしない。
実体がないから。
実体がないから、感謝しやすい。

神さまを信じて、起きることがあまりにも違う時、それは、人間への感謝が少なすぎる。

アガペ(神の愛)にしか感謝しない。
フィレオ(隣人愛。人間愛)は無視。
全部、アガペの話に持ちこんで、人間無視。
アガペとフィレオは、必ずセット。
神さま、手も足も頭もないのだから、いろいろやるのは人間だ。

神さまを見て、人を見ない。
共に生きる仲間を見ない。
聖書をちゃんと読めば、人を見なさいよと書いてあるけれど。

聖書には、感謝しなさい、と書いてあるけれど、書いてあればできるかというと、そういうもんでもないらしい。


結局のところ、小さい子供に、「なんていうの?」と無理やりありがとうを言わせたりすることが、一番、効果があるのかもねと思ったりする。

感謝が及ぼす影響を知っているから、もしも、私に子供がいたら、私は、小さい間、しつこくしつこく、ありがとうを言わせ、子供に鬱陶しがられたことだろうと思われる。

私は、ごはん、おしっこ、うんち、の次に、ありがとうを絶対に教えた。

悔しいけれど、それは、母と同じだ。