社会復帰
さて、社会復帰に入ろう。
体力落ちちゃってるので徐々に。
なんとも、贅沢な一カ月だった。
二十年ぶりの長期休暇だ。
仕事も少ししたが、やりたい仕事だけしていたので、遊びと変わらない。
前半二週間は、しんどかったけれど、後半二週間はごまめで、生きてるだけで感謝される状態で、好きにしていればよかった。
世の中大変なのに、一体これは何の褒美かと思われるようなパラダイスの二週間だった。
そんな中、また昨日、ひとつ死があった。
友人のペットが突然死んだ。
私は、よかったと思った。
私には、友人の話をゆ〜っくり聞く時間があったからだ。
ペットが死んだ話は人を選ぶ。
体験したことがある人にしか、わからないところがあるから。
私はわかる。
この一カ月、よかったことは、人の相談や話をしっかり聞く時間があったことだ。
自分の精神的コンディションが、素晴らしくいい状態で。
そう、過去、記憶にないほど、この一カ月、私の精神的コンディションは良かった。
ひとり家に閉じこもり、ほとんど誰とも会わなかった一カ月。
もともとインドア派なのもあり、また都会なので、なんでも通販ですぐ手に入る、どうしても通販は無理なものは送ってくれる人がいる、夫は働いているから自分が休んでも問題ない、夫はそばにいないから絶対にうつらないという、各種恵まれまくった条件下の中、私は、快適そのものに暮らした。
そして、私が喋る時間が短かったことで、私は、創作活動にいそしんだ。
友達もみな忙しい。
最初の二週間は相手をしてもらったが、残り二週間は、私は、夜夫と話す以外、誰とも話さない日がちょこちょこあった。
普段、自分は喋りに創造性を分配しすぎとるな、と、私は気がついた。
人を笑わせることに、体力を使いすぎている。
家の中にいる時間を増やそう、と、私は決めた。
どのみち、しばらくは、その方がいい。
自分は、症状が出る人なのだから。
無症状ならば、気にすることはあるまいが。
アレは変異する。
しばらくは大丈夫だろうが、そのうち、世界はまた繋がり、違うタイプが入ってくる。
そうしたら、私は、何度でも寝込むだろうと思ったのだ。
運が悪ければ、どこかで死ぬ。
今回、たまたま運がよかっただけだ。
しばらくは、行動範囲はミニマムだと、私は決めた。
命あっての人生である。
最優先は、私の命だ。
ようは、私は、能動的に「生きる」と決めたのだ。
生きたいと思ったのだ。
ぶっちゃけ生物学的には、私の命には何の価値もない。
私は命を繋がなかったのだから。
今日、死んでも、生物学的には問題ない。
しかし、私は、生きたいと思った。
これはすごいことが起きた。
説明は省略するが、すっごい前に遡ってブログを読んでいただけば、なぜこれがすごいことかは、事細かに書いてある。
さて、そうしたら。
私が今、わかっていることは、一カ月まるまるいろんなことを止めたことで、私には、以前より自分らしい時間が訪れそうだということだ。
自分の精神的コンディションをよくするものは何かを、私が、はっきり自覚したからだ。
ひとり。
音楽。
創作。
友人とのおしゃべり。
それから。
セッションは無料でいいと、私は思い続けてきたが、この期間、私は、本当に無料でやり続けた。
希望は叶っていた。
愛に溢れた素晴らしい一カ月だった。
まるで、神さまからのご褒美のようだった。
私がいるべき場所に、私が辿りついていることを、後少し、修正すれば、私の人生は完全に本筋に戻ることを、神さまが教えてくれた一カ月だった。
おまけで手に入れたものを、人に配り終えたら、それは完全に戻るし、はじまる。
完全に戻すも戻さないも私次第だが、ここまでやってきたからには、やってみよう。
くそめんどくさい作業が待っている。
くそめんどくさい、それはまさに、社会そのもので、私は、社会復帰に手をつけた。