与える
今、この時期にこれを書くのがふさわしいかどうか、わからないけど。
私は長い間、精神的、心理的なことを勉強し続け、いろんな人にあってきた。
そして、日常の中で、それを使えるようになろうとした。
それを他人が使えるのを、手伝おうとした。
世は不公平だ。
それらの考え方の半分くらいは、私はもともと知っていた。
親の考え方と同じだった。
そして、私は、それらの考え方を、当たり前として使う人達が周りにいることが多かった。
世は不公平だ。
彼らのほとんどは、育ちがある程度、裕福だ。
私は、小学三年生から中学三年生の六年間を除いては、私立に通った。
大人になってから出会う人たちも、育ちがある程度裕福だったかどうかは、すぐわかった。
私は、自分が裕福な環境で育ったことに、大人になるまで気がつかなかった。
私の実家は、本当に庶民的だからだ。
大人になってから、お嬢、とか、育ちがいいとか言われることがでてきて、それで気がついた。
育ちがある程度、裕福な人とそうでない人は、他人への与え方に決定的な差があった。
意外に感じるかもしれないが、ケチが少ない。
人にはお金や時間を使う人が多い。
友達を大事にする人も多い。
彼らは、与えることをいとわない。
与えることに苦痛を感じない。
それは金銭的な話だけではない。
精神的な話でも同じだ。
自らが、他者のために動いて、時間を使って与えることも、お金と同じだ。
見返りを気にせず、彼らはそうする。
知っているからだ。
そのうち、また自分に回ってくることを。
分かち合うことは、育ちが裕福な人の方がうまい。
世は不公平だ。
分かち合わねば、成功はできない仕組みにできている。
大人になった時点で、それが身についている人といない人がいる。
世は不公平だ。
つきたい職業によっては、学力差など関係ない。
学歴は、地頭が悪くなければ、大人になってからでも、自力で作れる。
ただ、人脈と身についている振る舞いが、大人になった時点で違うこと、与えることを知っていることが、その後にもたらす差は、私が知る限りは大きい。
世は不公平だ。
私が知る限り、彼らは、与えない人をはじき出す。
周りには入れない。
与え合うサイクルがある輪の中には、与えないものを入れない。
与えるものは様々だ。
私がなんとか生きてこれたのは、与え合う輪の中に、私がいたからだ。
世は不公平だ。
だからこそ、私は思う。
人に与えることの作用は大きい。
何を与えるかは、人生を分ける。
得ようとする前に、与えようとすること。
他者に与えるために、自分の時間をつかうことをいとわないこと。
これは、どんな思考法よりも、人生に差をつける。
何を他者に与えるかは、人生を分ける。
それは、普段のおしゃべりひとつから。
ジーザスも言ったか言わなかったか。
与えるものは幸いである。
多分、言った?
Give and take.
どんなに追い詰められても、もらうことを考える前に、与えるのが先だ。
自分が与えられるものを、考えるのが先だ。
私のようにケチな人には、ジーザスはいい。
なぜなら、ジーザスは、先にくれる。
だから、私は、余ってるものを分ければいいからだ。
私はいつでも、分けるものが余ってる。
まあ、ジーザスを信じてても、与えない、分けない人はいるけれど。
ジーザスはすると、その人には与えなくなる。
ジーザスは、分けたいから、その人に与えるわけなので、分けないものには与えない。
と、思うよね。
だって、神さまにとっては、誰でも一緒なんだから、誰がやってくれてもいいわけで。
神さまからもらうことばかり考えて、神さまが人間に与えるのに協力しない人には、時間の無駄だから与えないよね。
そりゃ、そうだろう。
与えなさい、って言ってるもん。
すごく長いことクリスチャンでも、与えない人も、私は知ってる。
神さまからもらうばかりを好む人もたくさんいる。
世は不公平だ。
神さまですら、公平ではない。
私の長きにわたる研究によれば、ポイントは、与えようと考えるかどうかではない。
与えるかどうかだ。
行動だ。