だらだらと
朝、突然、ああ、そうなんだよと思った。
ちなみに、私、本日から外出できます。
しかしながら、昨日から普通に風邪ひいてますが、これは普通の風邪。
見分けがつく女になりました。
経験してみればわかる。
アレは知らない体調だ。
これは知ってる。
懐かしの!いつもの!風邪。
それでも、私が90歳なら、風邪が原因で死ぬこともある。
でもね、知ってるから恐怖感はない!
今の世の問題は、恐怖と不安、なのだ。
さて。
起きて浮かんだのは、それじゃない。
どうして、この当たり前のことを、私はさっさと書かなかったのだろうと思った。
チラチラは書いてる。
でも、はっきり書いたことはない。
当たり前すぎた。
またちなみに、今日は私がチームジーザスの正式メンバーになってから一年だ。
要するに、去年の今日、私は洗礼を受けた。
ジーザスからのお友達一年記念プレゼントは、自由な外出だ。
そして本題。
私が思ったのは、考え方や思想、信仰はゴールじゃないよということ。
それは、はじまりにすぎない。
意識が現実を作る、内側が外側を作る、神がこの世を作る、なんでもいいけど、内側は、外側や現実を作る。
確かに作る。
そこで、人によって大きな差が出るのは、この時、意識、内側、神さま、に目が集中してしまうか、現実、外側、この世をそこと並行して眺めることができるかの差だ。
ゴールは作られる側。
現実、外側、この世だ。
文章には、ちゃんとそう書いてある。
よく読めば、これらの文章の中に存在する矢印が見えるはずだ。
矢印の先が、たどり着く場所だ。
その矢印のたどり着く場所、現実、外側、この世の中で、実際に何が人生に影響しているかといえば、物質、音、空間など、見えたり聞こえたりするものだ。
ここでまた差が現れる。
自分自身が見えている、聞こえている、雰囲気を作り出している存在だということを自覚しているか、していないかだ。
自分もまた、現実、外側、この世の一部だということを、体と頭が理解できているかいないかという差がそこにある。
これは、振る舞いや発言、つまり言動を見れば、誰が理解できていて誰が理解できていないかは、すぐわかる。
そして、矢印を今度は遡れば、それが、その人の考え方を表す。
はじまりの場所を教える。
ただし、行動が意味することは人によって違うから、他人が、その行動の意味を完全に理解することは難しい。
ここにも差が現れる。
理解することは難しいということを理解できている人と、自分は他人の行動の意味を理解できると思い込んでいる人の差だ。
行動のはじまりは、人によって本当に違うというのは、事実として存在するが、それは理解できるはじまりとは限らない。
なぜならば、はじまりの場所は、実に多様な世界だからだ。
ともかくも、はじまりの場所は、大きな違いではあるが、そこはゴールじゃない。
クリスチャンにしかたどり着けない現実も、この世もない。
あの世はあるかもしれないが、今は、この世を考える時期だ。
思想がなければたどり着けない外側はない。
意識がなければ作れない現実はない。
神さまや思想や意識に目を向けて、この世、現実、外側に背を向ける人は、尋常じゃない人数いる。
この世、現実、外側に目を向けすぎて、神さま、思想、意識をおざなりにするあまり、不幸せ感満載な人も、尋常じゃない人数いる。
2つは並行世界だ。
どちらが大事ということもない。
どちらも大事だ。
ここからは、長く人を観察してきて感じる個人的な意見だが、ゴールを神さま、意識、内側に置く人の現実は変わりにくい。
結果、非常に長く、そこだけを見続ける必要が登場する。
現実から幸せ感も得にくい。
これは、1人、すごくわかりやすく、私にそれを見せてくれるおっちゃんが側にいる。
クリスチャンになってわずか一年のひよっこに、「は?」と言われてしまうおっちゃんだ。
聖書には詳しい。
理論にも詳しい。
ただし、実践を全くしないから、ちいとも現実が変わらない。
キリスト教という実践の宗教においてすら、はじまりがゴールのことが起きる。
こう考えなさいという記載は、聖書には実に少ない。
こうしなさい、ああしなさい、と、この世と現実と外側についてが、多く書いてある。
考え方には自由を残してくれている。
神を讃えろとは書いてある。
だけど、では、いったい何が神を讃えることなのかの解釈が、おそらく、人によって大きく分かれる。
集まって、歌を歌って祈ることは、私にとっては、神を讃えることのごく一部にすぎない。
もっとも省略できる部分だ。
私にとって、神を讃えることは別にある。
それは、はじまりだけにない。
それは、ゴールだ。
神さまは、はじまりであって終わりで、これが他の思想や意識の手法とは違うところだ。
ただし、他の思想や意識の手法と同じ扱いにしている人もいる。
私の知ってるおっちゃんはそうだ。
つまり、この世、現実、外側に、神さまは生きると、私は考えている。
はじまりにあって、終わりにもあるって書いてあるし。
つまり。
自らの行動の中で、発言の中で、自らがどのようであるかが、神さまを讃えることだと私は考えている。
私にとっては、神さまを語ることが、神を讃えることではない。
宿題はやるけども。
約束したから。
自らの行動、発言のために、自分の思想や信仰、意識は存在すると考えている。
私のゴールは、いつでも、この世、現実、外側にある。
心と魂だけを救いたいなら、2000年前に生まれた。
どちらも一瞬で、話はすむ。
この世や現実、外側を変える方がずっと大変だ。
私は、はじまりから終わりまで、ずっとあなた方と共にあるとジーザスは言った。
それは、人類のはじめから最後でもあるだろう。
人が生まれてから死んだ後まででもある。
けれど、はじまりと終わりはいろんなとこにある。
世紀のメタファー使いが、たったひとつの意味で、メタファーを使うとは考えにくい。
この世、現実、外側にある神さまの仕事は、全て、人間の手により行われる。
はじまりが神さまだったとしても。
行うのは人間だ。
そして、その行いこそが、私の解釈では、神さまを讃えることだ。
それは、歌い語り読むというだけの貧困なバリエーションじゃない。
おはようからおやすみまでだ。
その間、何をしたかが、私にとっての神さまを讃えるだ。
どれだけ与えられたか?
どれだけ分かち合えたか?
どれだけ、自分が持つものを、今日は捨てられたか?
全部、行動だ。
教会的ではない考えかもしれないけど。
私は、教会には通うけれど、教会の信者ではなく、ジーザスの弟子だ。
弟子になって一年。
お友達になって一年。
今日、私が思うことは、私は何にも変わらなかっただ(笑)
クリスチャンになってよかったことは、ジーザスという生涯の見えないお友達と、それから数人の見えるお友達が増えたこと。
私は、私のままだ。
なぜなら。
神がそもそも、そのように私を造ったからだ。