なんでかわからないけど、書いてみる。
人生ドラマ仕立てな母に育てられた影響があると思われるが、私は、ドラマな人生を選ぶ人が苦手だ。
母は、悲劇のヒロイン志向が強かったので、非常にめんどくさかった。
まだ生きているので、相手をするのは、母だけで十分だ。
私は、ヒロインやヒーローになりたがる人が苦手。
ほんまもんのヒーローやヒロインなら、すごい!となるが、そうではなくて、なりたがる人は、めんどくさい。
私もものがたりの力を人生に使っているので、それもドラマと同じやないかい!と突っ込まれればそこまでだが。
主人公が、どちらにしても、自分であることには変わらない。
私は、一年かけて、ジーザス大好きっこになってしまったけれど、そういう理由でクリスチャンは、まだ、たまに苦手だ。
合わないことがある。
合うのは、割と淡々とした現実的なクリスチャンだ。
聖書というドラマをそのまま人生に再現しようとするクリスチャン。
内的世界を聖書のみで構成している人。
割とたくさんいる。
聖書の内容がそうなので、それは、戦いに満ちたドラマチックな内的世界だ。
聖書によれば、ジーザスや、初期から中世にかけてのクリスチャンは、大層な苦労と、同時に血に塗れた物語を生み出し続けた。
その人たちにとっては、それは現実で、ものがたりやドラマではなかった。
今、21世期に、そのものがたりやドラマは現実として存在しない。
似たようなことはあっても、本に書かれたことは、過去のものがたりだ。
今回の流れでもそうだが、今の人間は同じようではない場合も多々ある。
なんてハートフルな世界なのかしら!という出来事もたくさんある。
まず、社会構造が違う。
世界で迫害されているクリスチャンを探すのは、一部地域にはいるかもしれないが、なかなかに大変なことだ。
また、病気は、今にあっても奇跡で治ることもあるだろうが、ほとんどの病気は、奇跡ではなく医学が解決する。
ものがたりやドラマと、神様という存在は、また全く別の話で、聖書は聖典ではあるし、私は聖書は好きだが、その中のものがたりを、自分の人生にドラマ化しようとするクリスチャンは苦手だ。
だって、わざわざ、苦労するようにしなくちゃいけないもの。
苦労した話ばっかり書いてあるもの。
弟子がもめてる話とか。
治らない病気の話とか。
今の時代には、今の時代に合わせた、新しいものがたりを、神さまは用意しているはずだと、私は思う。
その現実を乗り越えていく時、古いすでに現実でないものがたりの中には、ヒントはあるかもしれないけれど、そのものがたりを再現しようとすると、しなくていい苦労をする必要が登場する。
ものがたりを信じる力はすごいから。
そこにドラマが生まれてしまう。
苦労を乗り越えた!という感動は、めんどくさいから嫌いだ。
わざわざ作られた苦労の場合は。
感動が好きな人は、苦労を生み出す傾向が強い気がする。
で、ここからは自分の話だ。
私がどうするかというと、私は、ドラマな人からは速やかに立ち去る。
ドラマの登場人物にされかけていると感じた時点で、立ち去る。
時間がもったいない。
そして、ドラマを演じられる人たちは、強いから、ほっておいていい。
信仰は人それぞれだから、ドラマの再現が信仰な人もいるだろう。
私にとっては違う。
胸の温もりを果てしなく広げていくことが、私の信仰。
聖書から採用しているものがたりは、ミラクル。全知全能。愛。
弱者を見えるようにすること。
自分が苦労することは、私の信仰には、マストではない。
苦労は神さまなしでできる。
誰でもできる。
私は戦いを好まない。
だから、聖書の世界観はまるごとは採用できない。
戦い苦労する間、自分が助けられたはずの人に手が伸ばせなくなる。
「私」に集中せざるを得なくなるから。
苦労と戦い、そんな簡単なことをさせるなら、私は、ジーザスを信じない。
苦難の時にあっても、苦労をさせない、そうだと感じさせないから、ジーザスを信じる。
逃げ道を用意してくれるから、神さまを信じる。
いつも一緒にいてくれるから、ジーザスを信じる。
神さまは、その人が欲しいものを、何でも与えてくれる。
苦労や戦いが与えられるなら、それが、その人が欲しいものだ。
私の欲しいものは、平和。
戦わないで手に入る平和。
戦わないから、感動やドラマにはかけるが、プロセスが異なっても、平和は平和だ。