ベースの願い、祈り、設定

願う力(祈る力)はすごいなと、私は、改めて感じている。
願うこと、祈ること、その力が人生を動かす力はすごい。

それは、どんな時にも、人生に影響を与えるんだなと感じている。


そして、目先の事象や、目先の欲求に対しての願いや祈りではなく、人生の根本に対しての願いや祈りは、何よりも優先される気がする。
ある友人は、それを、人生の設定といい表していたが、きっと似たようなことだろう。

それらは、自分の意識ひとつだ。

そして、どんな時にも、むしろ、自分が究極に追い詰められた時ほど、その意識ひとつが大きな力を持つ気がする。

それは、持つ人と持たない人がいる。
設定をしている人としていない人がいる。

その差が、起きることに明らかな違いを生んでいるような気がするということは、友人や私だけでなく、割と多くの人が気がついている気がする。
古くから。

そして、別に、それは全く隠されてはおらず、ずっと、その時代時代の言葉で、誰の目にも入るように見え続けてきた気がする。
21世期の違うところは、それを願い祈ることが苦手な人にも、それができるように他者が手伝える実践的な方法が、かつてないほど充実していることだ。

また、物理的にも、かつてない豊かさを、それでも今日も維持し続けている場所が多いことだ。

200年前なら、今の事態は、今の状態ではすまなかっただろう。
街中に、死体が転がりまくっている国が、世界中に存在しただろう。
この夏から冬にかけて、飢え死にする人が続出したはずだ。


そうはならないことを、たくさんの人が望んだ。
この事態はそもそも始まりが病気の話であるので、誰が悪いということでもなく、対応にはいろいろあっても、そもそもは政府には起きたことそのものには、何の責任もないことだが、政府は、お金をばら撒きはじめた。
ここまでに払った税金より、貰う金額が多い人も沢山登場するだろう。

飢える人が、ひとりでも少ないように。

これは、今の私たちの感覚からすれば、当たり前かもしれないけれど、こういうことが起きた時に、国が、飢える人が少ないように動くことは、ほんの100年くらい前までは、そう当たり前ではなかった。

戦後、いったい何人の戦災孤児が、道端で飢え死にしただろう。

人生の根っこそのものに、多くの人が望むことが、きちんと、今は形になるだけの物質的な豊かさを、今という時代は持つ。


だから。

もう一つ、その先。
もう一つ、その先にある人生の根っこの設定にも、願いにも祈りにも、普通の人の人生も手が届く。


どのような綺麗事を並べても、まずは、物質的な豊かさが先だ。
命の保証がない時、救えるものは、魂だけだ。

魂しか救えない時代は、人間にとって、生きるのが非常にしんどい時代だ。
魂が最優先になる時代は、どう考えても、人間にとって苦難の多い時代だ。

私は、クリスチャンなのだけれども、魂asNo.1とは考えていない。
そんなものは、神さまにまかしておけばいいのであって、人間が人間に対して考えるべきは、別のことだと考えている。

人間界で達成される願い、祈り、設定に、私は興味がある。


心は、物質と関係する。
心は、体という物質に属するからだ。
その正体が何かは、今もって不明だが、誰もが存在を認める目に見えないもの。

意識もそうだ。

それらが、何を願い、祈り、何を人生のベースに設定するか。
それが、おそらく、社会すらも動かしているような気が、私はする。


神さまじゃないと思う。
神さまは、なんだっていいのだから。
人間が望み、願い、祈ることを、与えてくれているだけなのだから。
そもそも、人生と魂に、何の関係もなかろうと思われる。

魂、別に体はいらない。
なくて存在できる。

だから、人生については、心と意識で、ちゃんと自分が祈り、願い、設定する必要があると、私は感じる。


それは、叶う。

私の人生のベースの設定が、この1か月には確実に影響していると、私は感じる。
私は、ただ、運がいいわけではない。
私は、ただ、恵まれているわけでもない。

人生に設定があり、願いと祈りがそこに存在しただけだと思う。
そしておそらくは、私の周りの人の願いと祈りと設定も、関係していると思う。


ようは。
自分の好みの話なのではないかと、最近、また私は感じている。
何を体験したいかという好みの話。

好みだから、変えるのに手間がかかる。
でも、好みだから、一瞬で変えられる。

この人生は嫌!と思えば、そこから変えられる。
人生こんなもんだと諦めたら、多分、そこで終わり。


ベースの願い、祈り、設定が与える影響は大きいと、すごく思う。