そして花びらはひとりでは撒き散らさない

昨夜、一通メールが来た。

小学五年生の女の子のお母さんからだった。
その女の子が、アフリカの子供に1000円寄付したいと自ら言い出し、黄色いバスと私のことを思い出して連絡をくれたらしかった。

私はとても、本当に、とても嬉しかった。

黄色いバスは、その国の現状や様々な理由で、今すぐは走らないので、私は、その国にユニセフが行なっている活動や、アフガニスタンの子供の教育をサポートしている活動のURLを送った。

そして、お母さんと一緒に、その女の子は、自分のお金の1000円を寄付することに決めたらしい。


そのやりとりのあと、ああ、、、ととても幸せな気分になった。
そして思った。

花びらを撒き散らすのは、ひとりでやるのではないと。

他の人が、花びらを撒くのを少しだけ手伝ったり、こういうのがありますよと伝えたりすることもまた、私のすることの中には含まれてるな、と。

他人のために自分のお金を使うことをもっと一般的なことにすること。
災害などの不幸だけにではなく、未来を育てたりすることにも。

仕組み自体は、すでにたくさん生まれている。

災害への寄付と、未来を育てることへの寄付は、継続性の期間が異なる。
災害は単発だが、未来は、毎日毎日、育つ。
継続的な収入が必要だ。


私が、黄色いバスを今すぐ走らせようと急がない理由の1つは、その継続的な収入が現段階では成立していないと考えているのがひとつだ。
資金で行き詰まるチャリティは多い。
継続的な収入源の確保が先に必要だと考えていて、今は、そちらの動きを先にしようとしている。

善意に頼るだけでは行き詰まるのが目に見えている。
善意は、自分に余裕がなければ、お金としては現れない。

お金は、欲の放出として使われることが一番多い。
または、自分が喜びを得るための対価として出されることが多い。
欲と喜びは、善意より、人にお金を使わせる力が強い。

欲と喜び、そちらをいかに取り込めるかだろう、と私は思った。
この場合、何をやるかという中身が重要なので、お金の出所に存在した心理や精神性は、なんでもいい。

善意を満たすのと、欲を満たすのは、何も変わらない。
お金を出すことで、みな、自分が満たしたいものを満たすだけだ。
お金の使い方には、高尚も低俗もない。
ただ、その先で、お金を使ったことが、活きるか死ぬかはある。
エネルギーとはそんなもの。

その収入源の一つに、自分がなりたいと私が思ったことも、今回、私が手をつけている実験の一つの根っこになっている。
失敗しても、私は痛くもかゆくもないが、私が実験に成功すると、利益を得る人はたくさんいると思う。
そうでなくては、つまらないし。


小学五年生の女の子が、誰に言われたわけでもないのに自分のお金の寄付先を探したということが、私の心を少し動かした。
そして、それをちゃんと受け止めて、その気持ちを大事に扱ったお母さんにも感謝した。


とても幸せな気分で、私は眠りについた。