日常に

少し前、友人に話を聞いてもらった。

ここしばらく、私が個人的に取り組んでいたプロジェクトがあり、それは白い砂浜をいかに快適に心地よい環境に整えるかに関わっていた。
大方のところ、それは準備できたと思えたのだが、何かまだ私がやり忘れているか、気がついていないことがあるような気がした。

何かスッキリしないものがある。
それで、話を聞いてもらった。

都合のいいことに、私の周囲には、話を聞くプロの友人が何人かいて、わからないな・・・と思うと私は時短のために、それらの友人に仕事として話を聞いてもらうことを依頼する。
これは逆のこともある。

というわけで、話をした。
最近の私の話は、ここまでのロングストーリーを把握していてもらわないとわかりにくい傾向にあるため、友人が話を聞くプロで良かったと思うことがある。

さて。

それで、やり忘れていることは、日常に新しい習慣を持ち込むことだとわかった。
自分で言った。

その新しい習慣が具体的には何を指すのかわからなかったけれど、次の日、私の体は新しいことを始めた。
過去に何度か同じようなことをしようとして挫折したことがあることと似ていた。

コツコツ、続けることだ。
日常として。

コツコツ何かを続けることは、私の日常では普通のことだが、その新しいことに関わることについては、私はしょっちゅう挫折した。
コツコツできないのだ。

始めてみて、私は気がついた。
真面目にコツコツしようとしたから失敗したことに。
誰かの役に立とうと考えたから失敗したことに。

私はそれを、私のために、遊び半分で、コツコツすればいいのであって、それが結果的に誰かの役に立てばそれでいいし、役に立たなくても価値がないということではないのだ。


友人との話の中で。
私は、言った。

私は受け入れなければいけない。
私が誰かの役に立とうとしないとき、自分のやりたいようにやっているとき、なぜだかそれらはいつも受け入れらてきた。
なぜだかわからない。
こんなことが許される?と思うようなことですら。

私は受け入れなければいけない。
世界は、それでも、こんな私をいつでも受け入れ続けてくれた。


私が受け入れなければいけなかったのは、世界は私を受け入れてくれている、ずっと、ということだった。
自分が自分を受け入れるではない。
世界が自分を受け入れているということを受け入れる、だ。

そして、友人は笑った。
あなたの日常、みんなの非日常。
日常って、本人には普通なんだけど、ものすごいバリエーションがあるんだわねえ・・・。


私がやり忘れていたのは、日常をより自分の日常らしくしていくことだった。


そして、そのあと、書いた日記で気がついた。
私の日常で、気がついていなかったために、私がやり忘れていることがあること。

私は、気がついた。
私は、食に執着がないのではない。
自分が本当に好きな食べ物がないから、自分はあまり食べることにも積極的ではないし、料理も下手くそではないのにあまり作ろうとはしない。
料理が下手じゃないのはほんと。
別れた元夫は言った。
君の料理が僕らの結婚を3年延ばした。
僕は君の料理が食べたかった。
それがなければ、僕らの結婚は3年前に終わっていた。

ね。

私は少しばかり、新しいレパートリーを覚える必要がある。
ほんのちょっと。
エンチラーダとか、ソパデセボジャ(オニオングラタンスープ)とか、フリホーレス(赤豆)の煮物とか。

それから、トルティージャ。(タコスの柔らかいの)


料理か。


そだな。
ないものは作るしかない。
自分の手で。

近所に、メキシコ料理やはないのだし、メキシコ料理やはあっても、日本のレストランでメキシコの庶民が街の食堂で食べているような料理はそこには出てこない。
お母さんの作る卵焼きがレストランにはないのと同じだ。
家で食べられるものをレストランではわざわざ出さない。
オニオングラタンスープは時々あるけれど。

私はメキシコ料理が好きなのだ。
ちょっとでいいから、作れるようになろう。


自分が一番好きなものが今ここにないことが、問題だったのだ。

日常に。