梅吉のはなし

阪神淡路大震災が起きた日の朝8時すぎ。
余震が続く中、ぐちゃぐちゃの家の中で、母が言った。

お姉ちゃん、ちょっとコンビニに行ってきて。
多分、開いているだろうから。
気をつけてね。

お姉ちゃんとは、私のことだ。
私は、お姉ちゃんである。

母は、自分は怖い勇気が伴うことは私に依頼するのが常だった。
お姉ちゃんはたくましいからというのが、その理由だった。

ゴキブリとか。

お母さんは怖いけど、お姉ちゃんは平気でしょ?
という理屈で。

私も平気ではないこともあったが、仕方ないので、引き受けていた。
うちは父はいないことがほとんどだった。
だいたい、いない。
小さい頃からそうなのだから、それはもう仕方ない。


それで、私は家から一番近いコンビニに行った。
コンビニは大混雑していた。
レジに並ぶ人は大行列だった。

私はいろんな人からジロジロ見られた。
私が持って並んでいたのは、大量の猫の缶詰だったからだ。

家に帰って、私は、恥ずかしかった、と言った。
みんな、水や食べ物を買おうとしていて、猫の缶詰を持っていた人なんていなかった。
心の中で、私が食べるんじゃないんです、猫が食べるんですって思い続けた、と。

母と妹は、キャキャキャと笑い、その瞬間、少し張り詰めていた家の中の空気は和らいだ。

母は、人間の食料はすぐに供給されるだろうけど、猫は後回しになるでしょうからねと言った。
真っ先に浮かんだのは、猫の餌を確保することだったらしい。

地震が起きた後も、家族全員が最初に呼んだのは猫の名前だった。
梅吉!と。
梅吉は、キッチンのテーブルの下で、ガタガタ震えていた。

普段は抱かれるのを嫌がる梅吉は、その日一日中、妹に抱かれていた。


落ちついた頃、梅吉はストレス性の膵炎にかかって二週間入院した。
あの時、たくさんの犬と猫が、同じ病気で死んだらしい。
毎日、梅吉の様子を見に行くのは私の仕事だった。

二週間後、元気になって帰ってきた梅吉は、それからずいぶん長い間生きて、25歳で死んだ。
実家の座布団の上で。

その頃、私は京都に住んでいて、その日は神戸まで仕事できていた。
実家は京都と神戸の中間にあった。
当時、私はあまり実家に近づかず、いつもはまっすぐ帰るのだが、その日はなぜか、駅のホームで実家に帰ろうと思った。

私が実家についた5分前に、梅吉は息を引き取っていた。
母と仲のいい近所のおばちゃんが、母のそばについていた。
母は泣いていた。

梅吉が、私を呼んだな、と思った。
母が心配で。

梅吉と母は、24時間一緒と言っても過言ではなかった。
母を支えていたのは、梅吉だ。

翌日、私は会社を休み、母と一緒に梅吉を動物霊園に連れていった。


それから一年後。
母が言った。

この前ね、玄関の前に、かわいらしい子猫がちょこんと座って、にゃあって鳴いていたのよ。
うちで飼ってくださいって。
でもね、もう、動物は飼わないから、お父さんにコンビニに捨てにいってもらったの。
この子はかわいいから、すぐに飼い主が見つかると思って。
お父さんね、コンビニの入り口に猫を置いて、影から眺めていたんですって。
変な人が拾わないように。
しばらくしたら、優しそうな女の人が、子猫を抱き上げて連れて行ったから、安心したみたい。
よかったわ。


今、実家には、しょっちゅう秋田犬と間違われる芝犬がいる。