方言という世界観

 

日本語でその質問を生かそうとするならば、各地方の方言のクリーンな質問一覧がいるのではないか?と、思った。


文頭の接続詞と語尾について。



そのコンセプトである、他者の世界観に寄り添い尊重することを採用するならば。


方言は、世界観だ。



会社や職場、地域の中で人が話す時、標準語が主に使われているだろうが、文頭と語尾には方言は混じり混んでいるはずだ。


会社員時代、東京で勤務していた時ですら、語尾に、ですますが登場していたのは、会議の時やきっちりしていた場所だけだった。


英語と違って、日本語は、シチュエーションで語尾が変わる。


どういう場面で、クリーンな質問が使われるかを考えると、その質問の効果を最大限に活かそうとするなら、文頭や語尾に、日本語ならではの工夫が必要かもしれないと思った。


その場が持つ世界観を、日本語は、言葉で表現する。

相手によって、語尾を変える。

両者の関係性で。


地域によって言葉を変える。

歴史という世界の中で。



個人(I)の持つ世界観だけではなく、「私達(we)」の持つ世界観が、日本語を使う人の個人(I)の世界観には、明らかに影響している。


敬語、丁寧語。謙譲語などもそうだが。



地域という世界観が、そこには存在する。



そこを、尊重すればいいのではないか?と、ふと、思った。



社会の仕組みも、クリーンな質問が生まれた場所とは違う。

どっちがどうという話ではなく、明らかに違う。


本当に個人的な問題について考える時は、人間はどこでも人間で、大した違いはないなと感じているが、日常の中で、その質問を運用するなら、日本語には、英語にはない要素がいくつかある。


方言も、発音が変わるだけではない。


昔ほどではないだろうが、小さな国がいくつもあるみたいなものだ。

そもそも、明治時代に、標準語が生まれたのは、みながあまりにも違う言葉を話すからわからないからという理由だったはずだ。



大阪弁のリストだけは、自分が作成したものを持っている。

日常の中で使うクリーンな質問について、短時間の講座をした時に作った。


私が悩み続けた、クリーンな質問の中にあるAndの訳は、大阪弁に限っては、早くに解決していた。



それを例で出せば、それぞれの地域で工夫できるだろうか?



人の頭の中が、最も自由に、クリエイティブに動くには、どちらがいいのだろう?


標準語か方言か?



体と心を結ぶのは、標準語か方言か?


質問する側には、その体験と共に存在した言語はつかみようがない。



さて、どうしましょ?



「ほんなら(ほんで)、全部がこんなな時、私は何が起きたらいいん?」



先では、日本語はどのみちまた変わるかもしれない。

言葉は生き物だ。


今、目の前にある時代とそこを生きる人のことだけ考えて訳せばいいよ、と、私の中の何かが言った。