願いや望みは、ゼロベースで考える

 私がクリーンな質問や、クリーンなアプローチが好きな理由のひとつは、ゼロベースで物を考えるのを手伝えるからだ。


先入観や前提を入れないというのは、つまりは、ゼロベースだ。


自分自身に好んで使うのも同じ理由だ。


特に、「あなたは何が起きれば好いのでしょう?」という質問は、そこに、全くの前提を持たない。


何が起きてもいい、何も起きなくてもいい。


それまで話していたことと繋がりを持っている必要もない。

理路整然としている必要もない。


話し手側にあるはずの、相手にわかるように説明しないといけないという思い込みすら、必要としない。



実際、この質問を問いかけると、話がポンと飛ぶことがある。



そして、その後、時々、これは、日本人の人にセッションした時にしか登場しない事象が起きることがある。

セッションを提供した人数が外国人と日本人とでは違うから、たまたまの可能性はあるが、おそらく違うだろうと推測している。



「頭に浮かんだことをそのまま言ってもいいですか?」とか、「わ、伝わらないかも」とかいう発言だ。


その後、「何を言ってもいいんですか?」とか、「そのまま口にしていいですか?」という感じの発言が続く。


私の答えはふたつ。

相手によって変える。


「どうぞ」

または

「今、何が起きてるの?」



もう一つ、日本人でしか確認できていない事象がある。


状況説明の長さだ。

非常に丁寧に、状況を説明してくれる人が多い。

なかなかご自身の話には辿りつかない。


おそらくは、私がより理解しやすいようにという気遣いから。




日本語は、相手があるということを前提として話される聞き手中心の言語だ。

小さい頃から、誰もが、相手がわかるように、話すトレーニングをしている。


聞き手中心の言語ということを理解していないと、理解してもらえないのは、相手ではなく、自分が悪いという感じになりがちのこともあるかもしれない。



他人にわかるようにと気を使い続けて、相手に合わせすぎた結果、自分で自分がわからなくなることすら起きている感じを受けることもある。





でもなあ。


まずは、その人の中にあるその人が表に出ることが大事なような気がするんだよな。


他人に先入観を持たないことも大事だけれど、同時に、自分のことをゼロベースで眺めることも大事だと。


割とすごいんですよ、自分への先入観って。

考えを支配する力が。



特に、望みや願いは、他人が理解することより、自分がその存在を知ることの方が重要だ。

望みや願いは、意志と置き換えてもいい。


どんな願いでも、どんな突飛な望みでも、どんなとんちんかんな意志でも、それが存在することを知らなければ、叶えようがない。


そして、今、周りにいる人に、必ずしも、それを理解してもらう必要はない。


願いや望みは、聞き手中心ではない。

その人中心のものだ。


誰よりも、その人が理解している必要がある。



けれど、なかなかに、ゼロベースで、自分に先入観を入れずに、それを言語化するハードルは、日本語では高い場合があるかもしれない。


他者を気にするから、他者にわかる願いや望みである必要があるという気遣いを、もしかしたら、自分の内側に抱いている可能性もある。



言葉は、他人とコミュニケーションするためだけにあるのではない。

自分とコミュニケーションするためにもある。


そして多くの場合、自分とコミュニケーションする時と、他人とコミュニケーションする時の言葉をわけてはいないだろうから、他者とどのようにコミュニケーションしているかは、自分とどのようにコミュニケーションしているかと、多少、通じるものはあると推測される。



つまり、何が言いたいかというと、他人とのコミュニケーションの仕方を変えると、自分とのコミュニケーションが変わる可能性も、また、その逆もあるということ。


ゼロベースでする、他人とのコミュニケーション方法を学ぶことも、自分と向き合うことも、どちらも、同じ効果がある可能性があるということ。



ただ、日本社会で暮らす人たちは、時には、誰のことも気にせず、自分と向き合う時間の方が、効果は高いかもしれないなと思った。


他人の反応は気にしなくていい。

その人が話したいことを、話したいだけ話す時間。


考えはコロコロ変わっていい。

それが自然で、変わらないのは、単なる停滞だ。


初志貫徹は、もはや美徳でもなんでもなく。

変わり身の早さを必要とする時に、ゼロベースで考えることは、これからどんどん必要になると思われる。


自分について、ゼロベース。


「私は、何が起きればいいのか?」



問題がある時は特に、効果があると思います。