どうも、やる気になっている話。関西ノリ。
私が大阪弁の好きなところはいくつかあるが、その中の一つに、「そりゃ、あんたが悪いわ」とか「そりゃ、あんたが悪いんやろ」とか言いやすいことがある。
このセリフの時、言う人の顔は、だいたいおかしそうな顔で笑っている。
人にも言うし、自分も言われる。
これは、他の地方の人は、あまり言わない気がする。
関西の中でも、大阪が主かもしれない。
私の実家の中でも、ディープな大阪で育った父からは、「お前が悪い」とよく言われたが、中国地方育ちの母は、言わなかった。
相手を否定することになると言っていた。
この「あんたが悪い」は、相手を否定はしていない。
むしろ、相手の存在を受容していて、自分が好きな相手にしか言わない人が多いと推測される。
このセリフが登場するシチュエーションとしては、相手が、何か酷い目にあった話をする時。
誰々のせいで〜、何かのせいで〜、と、相手はそれは、自分以外に原因があると述べている時。
そこに対して、「自分が悪いんちゃうん」とか、「そりゃ、あんた、あんたが悪いわ」とか。
話を聞いた人の、まあ・・・、本音である。
大変な目にあったのは、自分が悪いんでしょという物事も、まあ、たくさんありますね。
実際のところ。
この場合「それは大変だったね」と、共感するところから、話は始まらない。
私自身は、これを使うのは、相手が関西出身だと明らかにわかっている時だけだ。
理由は、他地域出身の人と、関西出身の人が持つ、「悪い」という言葉のイメージが違うことを把握しているのがひとつ。
これを、大阪はどこの地域より、はっきり言う。
文句言いの人数は、日本一多い。
これは、統計として出ているのを、私は見たことがある。
ある会社が社内で買っていた統計に出ていた。
私は、それを見て爆笑した。
他の人も、やっぱりね!と爆笑していた。
文句言いの相手をすることが、当時、私の仕事だった。
しかも、話を盛ってくる。
これは、どんな人でも盛ってくる。
だから、今、セッションについても、私は、相手が関西出身とわかっている時には、それは頭において話を聞く。
でなければ、本人が大した問題ではないと深くではわかっている話を、大きな問題へと発展させてしまう可能性があるからだ。
私は、経験的に、存在しない問題を、セッションのせいで存在する問題にしてしまうことがままあるのを知っている。
(その後を引き受けることが、仕事で、割とあったので。)
それから、「あんたは〜」と、他人が自分について述べることに慣れているかいないかに違いがあるはずという推測が一つ。
そして、ユーモアだと理解する能力が鍛えられているかいないかに差があると、評価しているのが一つ。
もう、トレーニングされているレベルが、これははっきり違う。
それが好きじゃない人は、自分で行動の自由を得た後、少なくとも、大阪からは離れて、周りにあるもう少し柔らかい上品な地域には動いているはず。
ただ、その辺りの人も、「悪い」は、割とはっきり言う人が多い気がする。
この、悪い、は、責めてはいない。
悪い本人がそこにいるなら、そこから始まるのは、大体の場合、その悪い本人をおちょくる話だ。
おちょくるは、標準語だと、からかう、かな?
からかうよりは、温かい愛情みたいなものは入るけど。
そして、私は気が付いた。
自分が過ごした10年は、関西の人たちが持つ特徴に、特化したセッションを構築してきた10年だと。
もちろん、地域はさまざまな人と出会ってきたのだが、私の元を訪れた他地域の人は、このノリが好きな人たちだ。
関西ノリに特化しよう。
ユーモアと、ガチャガチャした都会。
洗練はされていないが、にぎやかさと明るさ、元気さはある街。
日本のどこより、街を歩く人が喋っている街。(はっきり言ってうるさい。コロナ禍は、やや静かでよかった。)
そして、私は思い出した。
その昔、「お前のやり方は、関西でしか通用しない」と、売り上げを私に抜かれた東京にいた上司から、吐くように言われたこと。
どうも、これが、頭のどこかにあったなと、気がついた。
セッションやコーチング、コンサルも発信の中心は東京だ。
ややコンプレックスを感じていたな、と。
呪いをかけられていたようだ。笑
呪いや、呪い。笑
私は思った。
そんなコンプレックスはいらん。
関西で通用するなら、十分だ。
関西ノリに特化しよう。
それを面白いと感じる人が、どこからでもやってくればいい。
どこからだって大歓迎だ。
それが、私が、十年かけて、積み重ねたキャリアだ。
さあ、リソースが増えたよ。笑
さあ、ラテンなのりで突き進もう。
西日本なら、いける。
知らんけど。笑