幽体離脱

 

今日のはまた適当な話。

人生で一度だけ体験した幽体離脱の話。

ノスタルジーにひたるためではないが、ちと書いてみよう。


あの体験の後、私は、いろいろと感じることが変わってしまった。

何が変わってしまったかというと、「自分」というものの認識についてが変わってしまった。


時々、それをつまらなくなったと思う。

心について、不思議だなと興味深く感じていた根っこの知識を知っても、へえ!という驚きを感じられなくなったから。


聖書もそうだ。

魂や心について書いてあることを、教会のおっちゃんが、ワクワク感じるように、私には感じられない。

聖書は、意識という言葉は使わないが、今の言葉で言うなら、それは意識の使い方の話だろうと推測される箇所を読んでも、まあそうでしょうね、という感じしかしない。


つまらない。

(私がワクワクしながら読んでいるのは、ジーザスがしたこと。旅やいろいろ。体を使って何をしたこと。)



魂について書いてあるところは、意識についてと、ほとんど内容が被る。

私が確認した限りでは、意識という単語は、聖書にはまだ見つけられていない。

読み込んでいるわけじゃないから、どこかにはあるかもしれない。


新訳聖書は、ローマという時代背景が、ギリシャに憧れはするが、ギリシャ哲学アンチが強いから、わざと登場していないのかもしれない。

しかし、魂と意識は、表現は別で、それが属するものが、神か人間かという扱いは違うが、果てしなく書いてあることは近いような気がする。


実際、聖書を読んだ後、なぜ、コーチングやカウンセリングが、西洋で発展したのかが、私は理解できたような気がした。


(そういう意味では、自分がやっていることの理解は深まった。歴史的背景というか。)


ギリシャ哲学と聖書の存在が、それらを産んだのだろうと思った。

何を信じていても、何も信じなくても、誰でも使える意識や思考の使い方として。



コーチングやカウンセリングも、世が世なら、魔術の扱いで火炙りだったかもしれないね(笑)

メタファーを変容させて、人生を変えるとか、中世ヨーロッパの感覚なら、ほとんど魔術だろう(笑)



さて、ここを読むほとんどの人は、クリスチャンではないと思うので、少しつけたすと。


仏教の霊魂と、聖書の霊と魂は、少し意味合いが違う感じがする。

仏教で、悟りという言葉で意識についてが分けてある部分が、聖書では、霊について書いている部分の内容にあたるのではないかと感じることがある。


そこに求めるプロセスは違う。



(私、そもそもは、仏教徒。浄土宗。

南無阿弥陀仏&般若心経。

神仏習合なので、天照さんも。

ブッダの教えも今でも好き。平和的でよい。観音様や阿弥陀様も、手を合わせて拝むことはなくなったが、今でも、お寺に行けば、こんにちは、遊びに来ました!元気でやっております!と挨拶する。

自らを育んでくれたものには、感謝しかない。

たまにいる、仏教をよく知りもしないで、見下すキリスト教徒は理解できない。)



聖書は、扱いとして、生者の意識と、死者の意識を分けていない感じがする。

もしも魂という言葉が指すものが、意識ならば、意識は、体のみに属さないという話。


ぐだぐだ書いたけれど。



つまらなくなるから、死にかけてみるもんではないと思う。


体験しない方が、人生が面白いままであることは確かにあると思うことがある。

想像してワクワクできるというか。


確実に、私の人生は、以後、ある意味でつまらなくなった。

それが、自分への罰だと思っている(笑)

心や意識について想像する楽しみを奪われたこと。


(だから、心や意識の使い方に興味が出たのはあるかもしれない。)



その時、「自分」は体の外にいた。

今、改めて分析するに、その「自分」が持っていたのは、意識と視覚だけだった。


体は別のところにあったが、体には、意識がなかった。

体と意識が分離した状態。



私が「目を覚ました」その時、私は、私の体がベッドに横たわり、周りを家族が取り囲んでいるのを眺めていた。

ほとんど部屋の天井くらいの高さから。


私(これは普通の私)は、自分がそこにいるのを知らなかった。

その部屋は病院で、私は、死にかけて意識がない状態でそこに運ばれたからだ。



見えたことには、ようは、私は、死にかけていて、家族が叫んでるらしいのが見えた。

叫んでるらしいのが見えたというのは、音は聞こえなかったからだ。


外にいる「自分」には聴覚がなかった。


私は、ぼ〜っとそれを眺めていた。

何も感じなかった。



その後、ふうっと視線が、寝ている自分に近づいていって、そこで、まっくらになった。


次に目覚めた時、私は、天井を眺めていた。


そこには、感情と思考があった。



それで、私は、意識と、感情と思考は別物なんだなと、思っている。


その全てをひっくるめて、心。

多分、そんな感じだなと。



現代科学によれば、人間を人間たらしめているのは、意識なのだという。


その正体が何か、解き明かした人はまだいないが、体の外まで持っていけるから、それなら、それは魂と定義が同じだと思ったりする。



意識と思考と感情の仕組みの上位に何が来ているかで、人の人生はだいぶと違いが生まれるような気がしている。


そして、それは、人によって違う気がする。



なぜ、肉(体)に属するものではなく、魂や霊(この霊は、死んだ人のことじゃない)が重要だとジーザスが言ったのか、最近はわかるような気がする。


私の中での翻訳が終わったからだ。


幽体離脱の記憶が、それを可能にした(笑)



だからね、これを教会の人とは分かち合えないの(笑)


自殺未遂は、キリスト教の教えに照らし合わせると(照らし合わせなくても)最悪である。


あの世があるとして、昔のままのシステムなら、私は、死後地獄行き確定である。

ある意味、気楽(笑)

せめて、この世を楽しんでから死にましょうと、腹も座るというもんである。


もしくは、死んだ瞬間に、無神論者になるかだな!(笑)

現代のあの世には、抜け道がたくさんある。


教会では言わないよ。

死後に興味がないのは普通に言う。



私は、別の言葉で、自殺未遂をしなくても、幽体離脱の体験がなくても、似たようなことを、人に体験してもらうことを、すごく真っ当な方法で手伝うことができる。


人の意識を肉体(感情や思考)から離し、さらに、肉体と融合させることで、人生をより豊かにするのを手伝うことができる。


先にまず望む世界を生きて、それから、現実にするために。



幽体離脱の体験は、やはり、なくてよかったね、というのが本日の結論。


ある種類の本がつまらなくなるだけだ。

仕方ないの、罰だから(笑)



時間は戻せません。

諦め肝要。