私の人生とオリンピック
ホームページの話。
まだやっている(笑)
オリンピックは、私の人生ではないので、話としては書くが、私の人生の中で、流行病やオリンピックやワクチンを考える時間は短い。
それらは、他のことと同じく、人生上に存在する環境条件でしかない。
未来については、できるだけ好ましい環境条件を作る努力はしたいから、意見表明はする。
けれど、自分が環境条件を作る力、この場合は、私は、自分がウイルスでもなければ、国家を動かす権力を持たないので、それ以上は考えない。
この話には、環境は自ら選ぶことができるという21世紀が持つ自由が絡む。
今もそうなのだが、日本にいなくてはいけないという縛りは、誰にもない。
私は、日本にいるという選択をしている。
日本に私を誰かが縛り付けているわけではない。
というわけで、自分が選んだ場所なので、自分にとって好ましい状況になるように考え動きはするが、どのような状況になるか、自分にはそれをコントロールする力がないとはっきりしている時。
一番しっかりやらないといけないこと、自分の人生について、やはり主に考えている。
私のことは、環境条件よりずっと変えたり、整えたりしやすい。
というわけで、ホームページ。
それはオリンピックの話を書き始める前にできていたが、アップする気にならなかった。
何かが引っかかっていた。
オリンピックの話を書いていた間、私は、他人の反応を気にしないで書いた。
その間、私は仕事は普通にしており、私の日常には変化がなかった。
昨年来引きずっていた体調不良が急に良くなっていっていた以外は。
書けば書くほど、体調はよくなった。
面白かった。
生命力が高まってくみたいな感じ。
本気で書いてたからなあ。
そして、途中、どこかに書いたが、自分に長い間かかっていた呪いが溶けたような気分になった。
そして、昨日、私に書けるのはここまでかなと思った。
すると、その瞬間、脈絡なく、あ!と思った。
作りが親切すぎる、と、私は思った。
新しいホームページは、非常に親切な説明と、親切な作りになっていた。
私は、親切すぎるから、親切すぎる必要がある人を集めてしまうと気がついた。
つまり、手がかかるめんどくさい人が来る、と。
私のセッションの顧客に共通することは、大人であることだ。
私が仕事として人の話を聞いていることを理解しているし、自分の人生の責任を誰かに押し付けようとはしていない。
私がいい人ではないということを把握した上で、私のセッションを利用してくれている。
私の目線だったり、私の励ましだったり、スキルだったり、そういうものを必要として。
抜け道を探していたとか、逃げ道を探していたとか、普通じゃないやり方が欲しいとか、頭が整理したいとか、こんな人生もういやだとか、ともかく、はっきりとした何かを抱えて。
そういう人達には、親切な説明はいらない。
なるほど親切すぎたか、と、私は思い、シンプルな作りに戻すことに決めた。
同時に、昨日、多分、二年くらいかかるプロジェクトが別に立ち上がった。
ワクワクした。
私の目は、来年を見つめはじめた。
オリンピックの話で、私が、最後に書いておきたいのは、運がよければ大丈夫、これだけ世界で叩かれたら、参加する人が怖くて気をつける。
ま、どのような時期がやってこようとも、生き抜くだけしかないということ。
オリンピックが悪い方に転んだ時、そのあと起きることに、新しいことはない。
失業、貧困、病気に死。
いつでも、世界中に転がっていることが起きるだけ。
自分の身に降りかかってないだけ。
それが影響する人が、できるだけ少ないことを祈るばかりである。
自分については、私は、なんら心配していない。
私はカオスには強いから。
私は、この世にもしも自分しかいないなら、オリンピックはどっちでもいい。
どうなろうともなんとかなると信じている。
開催されたら、開会式はいつも通り見る。
他はいつも通り見ない。
私はそもそも、あまり、スポーツに感動しない。
文化系なもんで。
コンサートとかライブとか映画とか、そっちの方が感動するし、希望ももらう。
もし秋に緊急事態宣言が出たら、外出自粛の「お願い」は、迷惑料をくれない限り、もう私は協力しないと決めただけ。
自粛は義務ではないですよ。
協力するかしないかの選択肢があります。
補償なき私権制限は、憲法違反。
立法府は、憲法は守る。
お願いしかできない。
今も、自粛しない人を責める権利は、本当は誰にもない。
日本人が気質として持っている同調圧力を、自粛しない人をメディアに叩かせて、政府に利用されているだけと思う。
医療体制作ったり、個人に補償するより、安くすむからね。
つまり、私個人に関しては、オリンピックが開催されたら、完全に元の日常を取り戻す。
あとは、起きることに合わせて考える。
はい、次、行ってみよう。