秋の投票に行かないと起きること
この秋の選挙には行った方がいいですよ。
どうせ、現与党が再選でまた与党になると思っていても。
どこも自分が入れたい政党がないと思っていても。
投票率が高いことに意味があるので。
たとえば、政府がやろうとしたこと、まあ、オリンピック。
最近、ついに、右よりの新聞まで世論調査を取っていたが、どの世論調査も6割が開催に反対、2割が延期希望という結果が出ている。
つまり、8割が、この夏には開かないで欲しいと思っている。
右も左も関係ない。
そりゃそうだ、話は政治じゃない。
しかし例えばこの後、政治じゃない話を政治ととらえたままで、政治家が、医者や感染症の専門家の意見を無視して、オリンピックが開催されるとする。まあ、よほどでなければやると私個人は感じている。
狂った人を正気に戻すのは難しい。
信じている人の目を覚ますのも難しい。
欲がからめば、さらに難しい。
そしてそのあと、開催された後の選挙の投票率が低かったとしたら。
世論は、もう全く意味を持たない。
気にしなくていい数字になる。
反対していても、それが投票活動に繋がらなければ意味はない。
だからこの国の政治家は、世論を気にしない。
今などさらにそうだろう。
野党が弱いから。
文句言うだけで行動には移さない人の意見は、これは、政治に関わらず、どんな組織でも大事には扱われない。
さらに選挙に来ない人は、権利だけを主張し、義務を果たさない人ということになるので、基本的には、あまり気にしなくていいということになる。
自分が信託したい政党や政治家がいないなら、白票を入れてくるのでいい。
誰もいないと書いて返ってくるのでいい。
無効票でも、それでもいいから、投票には行った方がいい。
投票率が意味を持つ。
投票するという行動そのものが意味を持つ。
今ここで、平和ボケから抜けきれないと、この後、政治家が管理する側の大きな目線で考えるいい国に作り替えていくための作業の中から、国民の幸せや喜びという概念が抜け落ちる。
個人の人生まで話を小さくして考えれば話はわかりやすい。
どうでもいいと考えるような小さな行動をしていないことで、その人が周囲から大事に扱われないことは多々ある。
NOを言わない、意見を言わない人の意見は、集団ではほっておかれがちだ。
がまんは、ほとんどの場合、意味がない。
我慢してくれると管理するのに都合がいいので、我慢が美徳と教えるだけだ。
我慢と忍耐は違う。
沈黙はNOは表明できても、その意見は現実には意味を持たず、外界と自分の中との間に繋がりをもたらさない。
沈黙は、現実を変えない。
この場合、投票するという行為がないと、現実は変わらない。
そして、あの時、投票率が低くさえなければというくらい、大きなタイミングの切り替わりになるのが、この秋の選挙だと、私は感じている。
オリンピックの話は、はっきり言って小さい。
これは、単に、時代が変わり始めることを告げている序章にすぎないと思う。
わかりやすいお知らせ。
投票には行った方がいいと思う。
白票でいいから入れてきた方がいい。
選挙当日である必要はなく、都合がいい日に、不在者投票しておけば、休みを潰すこともない。
投票率がもう少し高かったら、ここまでも政府は、現役で働く世代のこともケアする対策を出してきたのではないか?
せめて、消費税か所得税の減税くらいはしたんじゃないか?と思うからだ。
ないから、こんな国。
よそは減税して、個人にお金配ってたから。
投票率の違いだろうと、私は、思っている。
意見や感情はどうでもいい、税金だけ納めてくれてればそれでいい(サラリーマンは自分で納税してるわけじゃなく意思関係なく天引きされるから、文句があっても気にしなくていい)。
そういう存在に、自分達を貶めたのは、選挙に行かなかったからだと、私は思う。
高齢者が大事にされ過ぎるくらい大事にされているのは、彼らは選挙に来るからだ。
でなければ、選挙に行けなくなった世代の福祉が低下していくのはおかしい。
軍事費がサクッと増やせるのだから、福祉だってサクッと増やせるはずだ。
そこだけ、国民の税金だけで賄おうとする意味がわからない。
投票は小さい。
でも、小さな行動は大事だと思う。