見たものを見たままに

人との出会いは人を変える。

数ヶ月前、面白いほど、目で見てない人に出会ったことで、私は、自分の物の見方に興味が湧いた。

この目で見てないは、状況を目で見てない。
たとえば、何か出来事が目の前で起きる。
それが目に入る。
そのあと、自分の心や思考の中で物語が始まり、そちらが現実に勝つ。
そして、現実に目の前で起きていることに即してではなく、その心や思考の中で起きていること(つまり空想とか妄想とか思い込みとか呼ばれるもの)が、その人にとっての現実となり、それに即して動く。
そして、周りはびっくり。


何か名称をつけて解決することはできるのだけど、この人は別に病気ではない。
そして、大なり小なり、そういうところは誰にでもあるような気もする。
しかし、あまりにダイナミックにそれが起きるのを何回か見て、そして、私は考え始めた。


ちゃんと目で見てという話を、セッションや研修ですることはたまにあった。
自称勘がいい人には特にする。
その勘は、どこから、何を見て、やってくるのか?


物事の判断を自分の内部の主観的な経験に頼りすぎて、現実に起きていることを目で客観的に見ないために、起きる問題がある場合。

見ればわかる、という類のことを、ただ見ないだけのために起きる問題というものもある。

主観的な経験だけが、人生に必要な経験ではない。
なぜならば、何かを現実で実践するとき、手早く言えば生きるとき、そこには主観以外の要素、つまり他人が巻き起こす他人の主観が現れたものが存在するからだ。

というわけで、実践においては、客観的な視野というものも、また必要だ。

そちらは、大概の場合、成長過程で身につけているので、医療分野に入る心理療法以外では、わざわざ技法にはなってない感じがするけれど、客観的に見れないことが、何かの理由になっていることは、まあまあある感じがする。

特に、精神的なことを追求してきた、心の目を鍛えてきた人に。
私が出会ったこの人もまた、それを真摯に追い求めてきた非常に真面目な人だった。

リアルな2つの目、外側の世界を眺める目は、わざわざついているからには、重要だ。


そして、そこから何がどうだか、私の思考はぽんと飛んだ。
そうだ!デッサンの練習をしよう!と私は思った。

中学生の写生大会で、アスファルトの道路を水色に塗って、美術の先生に怒られて以来、私は絵を描くのが嫌になった。
道路が水色に見えた!と私は主張したが、先生は、アスファルトの道路は水色でない!と主張した。

突然、あれは、先生が正しかったと私は思った。
アスファルトの道路が水色に見えたのは、おそらく私の2つの目ではない。
その風景を見て生まれた心象風景だ。
写生は見たものを見たままに写すものだ。


私の手元には、デッサンの本があった。
だいぶ前に美術館で買ってほったらかしていた本だ。

デッサンの練習をしよう。


見たものを見たままに。
そこを強化するその時、現実の見え方、感じ方、それらはどう変わるだろう?