メタファー

概念や事実に見えてメタファーなことはよくあって。
例えば、精神世界のシステムを表すメタファー。


それらは、いろんな精神世界の思想の中によく見られ、名称を持つ何かの概念をまとめたもの。
特徴はことごとく定義があいまい、または、定義が広域に渡りすぎて端的にはまとまっておらず、その理解に高い知能を必要とする。

そして、大人になってから、あいまいな定義と共に名称を覚えることが多い。
体験は後からこじつける。

ありがたい内容や戒めを含むことも多く、好奇心を引くような内容も多いが、そのメタファーが表す事象のほとんどは、精神世界や思想の中にだけ存在する。

なので、その世界のシステムは、ある人にはあるし、ない人にはない。
認知しなけりゃ存在しない。
何しろ話は精神世界。

今、見えてないけど、1キロ離れたところには駅があります、というのとは話は違う。
物質は、見えてなくても実存はするときはする。
精神世界にしか存在しない存在は、ないと思うなら、その人にはない。


そのメタファーが表すのは世界共通システムではなく、個人特有のシステムだったりする。
だが、それらのメタファーの特徴は、まるでそれらは全世界共通のシステムであるかのように思い込ませる力があることだ。


そして、この全世界共通と思いこまれる世界のシステムを表すメタファーは、ものすごい数が存在する。
名称やら、なんらかの仕組みを表す概念やら、法則やら。


問題は、個人の世界システムを全世界共通のシステムだと思いこんだ時だ。
それらは、世界の理解の仕方に過ぎずプロセスを表すことが多いが、事象としてそれを捉えた時、プロセスはプロセスとして機能しなくなる。

現実ならそんなことは起きないが、話は精神世界だからだ。


そして、個人特有の世界のシステムなら変えられると人は思っても、全世界共通のシステムだと思うと、変えられないものだと思いこみ、そこに合わない自分に対して考え始めることがあるからだ。

自分に合わないシステム、ではなく、システムに合わない、または合わせられない自分。
主役が、自分からシステムに。


それらの世界のシステムは、個人の精神世界をサポートするために存在すると思われ実際サポートになることも多い。

でも、同時に、サポートではなく、個人の世界のシステムの邪魔をしている場合もある。

合わないならば、アレンジすればよいと思うが、つまり、自分にわかりやすいメタファーや、現実に置き換えて考えればいいと思うが、どれでもいいけど、それらの世界システムを採用するときに、なぜかそれが行われず、せっかくの世界システムがまるで機能していないように見えることがある。

この世界のシステムは、誰の日常の中にもある。


私は、精神世界や思想の話は好きだけれど、そしてそれは自分の人生にいい影響を与え続けてきたけれど、自分が気になり始めているのは、その世界のシステムというメタファーが生むネガティブな側面だ。


個人特有の世界のシステムを選ぶことが可能なのが、21世紀日本で保証された自由なのだが、全世界共通システムの中で生きる人は時に、頭の中の自由を放棄しているように見えたりする。

なぜ、それは起きるのか?


世界システムのメタファー自体にはおそらく問題はない。
単なるメタファーだ。

事実と思えば事実だし、事実だと思わなければ事実じゃないものは、メタファーだ。
要するに、確認が取れず、物質として存在しないという意味で。

事実と思えば、メタファーとして機能するし、思わなければ機能しない。

精神世界とはそんな世界。



システムは何かが、問題じゃなくて、その世界システムがどのようにその人に機能してるかが問題だけど、精神世界の世界システムの多くは、そうかもねという書き方はしないで、こうだ、と書いてあるので、読み手によっては、違うことが起きていそうな気配がある。


合わない世界システムなら手放せばいいじゃん、と思う時がある。

でも、全世界共通という言葉には、パワーがある。

思想に、全世界共通はない。
あったら全員クローンか、同じプログラムをされたAIで、もはや、人間という定義にはおさまらないと思われるけど、全世界共通システムは、あるみたいなことになってること、それこそが、それらのシステムがメタファーである証明だと、私はたまに思う。