共感と信頼
先日、何かの合間にしていた話で、「自分は〇〇という単語を強要される時、ひっかかる」という話がでた。
〇〇はいろいろあるが、私は「私は一時期、共感という言葉が流行った時に、その言葉を聞くと、これ以上どうやって?と反発を覚えた」という話をした。
共感しましょう、共感しましょうという人は、共感を簡単に考えすぎていて、それがどれだけ疲れるか知らない人だとまで、当時、私は思っていた。
その言葉が深い意味で使われてはいないことは、それらの文脈から読み取れたけれど、それでも私は反応した。
当時、共感という言葉は、見たり聞いたりするだけで私に疲れをもたらした。
私の共感力は低くはないので、それは難しいことではなかったけれど、私は当時、感情疲労状態にあったのではないかと思う。
他人から共感的に話を聞いてもらうことを「必要とする」人は、多くの場合、ベストコンディションではないから、共感を必要とするものは、当然のごとく、話を聞く側にとってはある程度の自己犠牲を必要とする。
自分のものでは本来ないもの、感じなくてよいものを、そしてそれらは必ずしも快適とは限らないものを、共に感じる必要があるからだ。
思いやるのとはわけが違う。
他人に共感しなさいと押し付けるのを私は好まないが、それは、自己犠牲とは自らがすすんですればよいものであって、また、自分にとってその価値がある相手にすればよいのであって、他人が強要するものではない、ましてや、全員に対して共感的でいたらその人本人が行方不明になるという考えがあるからだ。
それぞれにはそれぞれの状態とキャパシティがある。
他人に共感してる場合じゃない、しっかり自分とつながってなさいという状態の人もいる。
時には、自分ひとりを支えるので精一杯の時期もあるかもしれない。
その人が今どういう状態かは、外からはわからないので、一般的に、共感しましょうねと一般に向けて書いてあるのを見ると今でも、他人に言うならお前がやれと、良い子ではない私は思う。
(できた方がいいのはいいけど、できなくても死にはしない)
私の定義では、他人を思いやることと人に共感することは中身が違う。
でも、それらの文脈では、同義で使われているように見えることが多い。
だから、おそらく深い意味も悪意もなく、だいたいの場合、書いてあるそこには優しさと善意(それから、たまに正義感)しか感じないのだが、もう勘弁してくれよ、と以前はよく感じた。
最近は見る頻度が少し減った。
共感しようにない出来事が増えたからかもしれず、流行りは正義に移ったように見える。
共感はやりすぎると疲れを生む。
サービス業や人を世話する仕事の人たちは疲れ果ててることがある。
当時、私は単に仕事に疲れていただけだったと思われる。
それで、おそらくバランスを取るためにだけれど、プライベートの私は、共感が必要ない人を友人に選ぶ傾向が高い。
自分の気持ちははっきり言い、やりたいようにやっていて、私が気がついていないと思われることで言いたいことは、私にはっきり伝える人たち。
私は、自分を思いやられるのはあまり好きではない。
思いやらなくても、助けてもらいたい時には、助けてくれとはっきり言ってくる人を友人に選ぶ傾向がある。
私も、助けてほしいときは、助けてくれとはっきり言う。
友人たちも似たような状況であることが多いから、成立しているのかもしれない。
お互い、それを言うことが相手に迷惑かどうかはあまり考えていない。
無理なら無理と言うだろうという感じ。
とここまで書いて気がついたけれど、友人との関係においては、私は、共感の代わりに別の要素を使っている。
それは、信頼、だ。
信頼は、共感と同じ働きをすることがあるようだと気がついた。
相手は大丈夫だ。
相手には自分のことを自分で考えられ、自分を癒す力がある。
相手はちゃんと大人だ。
判断はちゃんと自分でできる。
手を貸してもらう必要があるかどうか、自分で見極められる状態にいる。
という信頼。
人として信頼してる。
そういえば、仕事も、共感よりはそっちを使っている気がする。
大丈夫だ、と信じること。
どんなひどい状態の人を見ても、大丈夫だ、と信じること。
信頼は、私に疲れはもたらさない。
なるほど。わかった。
これは、多分、共感疲れが生んだたまものだ。
疲れもたまにはよいものをもたらす。
書いてみるものだ。