英語を聞いて笑う英語がわからない幼稚園児

言葉の理解について考える時、いつも思い出す映画と場面がある。
デッサンの本を読んでいて、また思い出した。


私が大学生の頃、田舎から幼稚園のいとこがおばと一緒に、夏休みに泊りがけで遊びに来た。
そして、みんなでライオンキングの映画を観に行くことになった。
人が多すぎて、吹き替え版には入ることができず、いとこはまだ、ひらがなしか読めなかったけれど、字幕版を観ることになった。


いとこは、とても楽しそうに画面の中の動物たちを見ていた。

映画館の観客の中には、何人かのアメリカ人だと思われる人たちが混じっていた。
国籍を訪ねたわけではないが、その服装と始まるまでの様子から、そうだろうと推測していた。


いとこは、ほとんど字幕は理解していなかったと思われた。
でも、彼が退屈している様子はまるでなかった。


その映画の中には、ところどころ、笑いの要素が混じっていた。
笑いの場面になると必ず、アメリカ人が先に笑い、それから字幕を読んだ日本人が笑っていた。
笑うタイミングがずれていた。

ところが、いとこと、それから何人かの子供たちは、最初から最後まで、アメリカ人と同じタイミングで笑い続けた。
ピタリと同じタイミングで。

動きもユーモアある感じではあったが、セリフのやりとりが面白かったにもかかわらず。


映画が終わった後、私はいとこと話して、彼が、ストーリーをきちんと理解していたことに驚いた。
彼はもちろん英語はわからないし、日本語も漢字は読めなかったのに。


いとこはどうやって、ストーリーを英語ネイティブのように理解したのだろう?
それは、長らく私の謎だった。
言葉がわからないのに、どうやって言葉を理解したのだろう?

言語でない言葉があるのかな?
当時の私に、ノンバーバルな言語についての知識はなかった。


しかし、ノンバーバルな言語についての知識がついた後も、私は不思議に思った。
あの時、あまりにいとこは、きちんと、理解できていたからだ。


デッサンの本の中に、見たものを見たままに理解する能力を、人は学校の学習で失うと書いてあった。
直接知覚の能力は、学習によっておいやられ、衰えていくらしい。

いとこや何人かの子供たちは、まだ学校に入る前だったので、それを失っていなかったのだろうか?


相手の意図することが理解できることは、コミュニケーションにおいて重要なことだけれど、勉強によって、それを衰えさせることが理由で、世にはこんなにたくさんのコミュニケーション問題が溢れているのだろうか?
以前は見ただけでわかったことが、理解しようとして、わからなくなることによって?


そして、私は、何かわかりそうなんだけど、わからないもどかしい状態になった。
そのもどかしい感覚が、一歩前進を私に教えた。
頭の中が、何かをやり始めたのだろう。

デッサンの本の中にヒントがあるような気もする。


なんでだろう?と思ってから、25年目にようやく一歩前進。
普段やらないこと(絵を描くこと)もやってみるものだ。