感情と理性

感情で悩む人は多いけれど、よくよく話を聞いてみると、感情で悩む人の悩みはすごく大雑把に分けると3つに分かれているような気がする。

感情を抱くことそのものに悩んでいる人、それから、感情を抱く前に起きることに悩んでいる人、感情を抱いた後に起きることに悩んでいる人。

どれも、だいたいひとつかふたつ、その人にとってやっかいな特定の感情がある。

そして、共通しているようにみえるのは、その感情に対して、なんらかのよくない評価をその人が下していて、その悩みの原因は感情だと決めつけていること。

その感情に対する評価の出所は、その人自身がまさにその感情で困っていることもあるし、一般的にも、特に道徳、宗教、倫理その類で、その感情は抱いてはいけない悪いものだとカテゴリーわけされていることもあるかもしれない。

それらはたしかに、扱いが難しい感情のようにみえる。


話を聞いていると、感情を抱くことそのものに悩んでいる人は少ないような気がする。
その感情は悪だというその人自身のルールがあり、ルールにはまらない自分に罪悪感を感じたり、その人自身がその感情を抱く自分を好きではない場合はあるようだけれど。


感情を抱く前に起きること、と、感情を抱いた後に起きることに悩む人の人数は、それよりずっと多い感じがする。
同時に、前後に起きていることが問題だと気付いている人は少ない気がする。

感情そのものに問題がある、と思っていること。


感情を抱く前に起きること、と、後に起きることは、感情そのものとは別の話だ。

そして、もしもそちらに目を向けるなら、やりようは出てくる。


感情は、その一瞬に対する反応で、自然に体の反応として浮かぶものだ。
その自然に浮かぶものを、浮かばないようにするよりは、その前後、自分でコントロールできる部分から手をつけた方が早いことが多い。


例えば、非常に高い頻度で耳にするお悩み感情に怒りがある。
怒りの感情で悩む人は多いが、同時に、怒りが問題にならない人も多いということを、怒りで悩む人は知らないことが多いような気がする。
怒りは必ず表現されるものだと思いこんでいるような感じすらする。

他の感情と同じように、怒りも表現されたりされなかったりする。

問題にならない人が怒りを抱かないのかといえば、それは違う。
ただ、怒りを抱いたことで、問題が起きないだけだ。
だから、怒りを抱くことを予防する必要もないだけだ。
それは、ただ不愉快なだけだからだ。


問題を起こさない感情は放置できる。
感じる自由は手放さないですむ。
感情を感じることと、感情を感じたそのあとは話が別だ。


そして、今は21世紀、と私はよく思う。
抱いた感情に対して、どのように対応すればいいのか、各種さまざまな知恵があふれかえっている。


感情で悩む人は、その感情にまつわる問題を長く放置していることが多い。
最初に抱いたシンプルな小さな感情とは別物に成長した何か、を抱えていることが多いような気がするけれど、真ん中は手が届かない場所に消えてしまったわけではない。


その人が、そこに手を伸ばしてくれるのをただじっと待っている気がする。

感情は悪者ではなく、起きていること、体験していることに対する自然な反応だ。
例えば、怒りも重要な感情だ。

人間がまだ今ほど理性を発達させておらず、理性による体の抑止が弱かった昔には、怒りは支配者側にとっては困る感情だったことが多い。(今だってそうかもしれない。怒りは共感を生みやすいし、あおりやすいし、相乗りしやすい感情だから、怒れる集団を作るのは、喜ぶ集団を作るよりずっと簡単だ)

古い書物の中には、たいていの場合、怒りは悪い感情と書かれていることが多い。
残っている古い書物は、少なくとも近代までは、支配者の保護がなければ、残れなかった書物ばかりだ。


今、怒りが情熱を生み、世の中を動かすこともあるのは、見れば明らかだ。
怒りが生むのは破壊ばかりではない。
怒りは創造もすれば、変革もする。

同じ感情の後に起きることは、ひとつではない。
そのあと、どのように、その感情をその人が処理するかにかかっている。


人間は機械ではないから、決まった反応や処理はそこにはないけれど、感情だけを重んじるのではなく、理性の力が発揮される必要がある時代が来たような気がしている。

感情で動くだけでは処理しきれない未体験な世界に、よくも悪くも突入しようとしている気配がある昨今。
自由に感じるためにも、理性の力は今まで以上に必要になる気がする。
感情処理能力も鍛える必要があるような気がする。


そこまで、人間は成熟してきたと信じたいような気がする。